0人が本棚に入れています
本棚に追加
1
俺がバイトからアパートに帰ると、俺がいる。俺はベッドに寝転がって、ポンコツ芸人のコントを、へへへ、へへへと、IQの低さ丸出しな笑い声をたてながら観ていた。
「勤労、ご苦労」
寝転がっている俺――まぎらわしいので俺2号とする――は、帰ってきた俺――こっちが俺1号だ—―に視線を一瞬だけ投げ、偉そうに言った。
「なんか、おまえ、むかつく」
俺1号はスニーカーを脱いであがると、はずしたマスクを丸めて2号に投げつけた。2号はそれを右手で打ち返す。
「きたねえな」
「俺がしてたマスクだろ」
「おまえは俺じゃねえんだよ」
「でも、おまえは俺だろうが」
2号と不毛な言い争いをしていても、苛つきが募るだけだ。
いつから俺が2人に増殖したのか、実ははっきりと覚えていない。気がついた時には俺1号と2号がいて、さらに事態を複雑にしているのが、1号と2号の意識が時々入れ替わることだ。1号だった俺はある時、1号の記憶を持ったまま2号になり、そこでは2号の記憶もまた俺のものになり、そうしてしばらく2号として過ごしていると、ふいにまた1号に戻る。戻った時には、そこまでの記憶とともに、俺が直近で2号だった間の1号の記憶もまた俺のものになるのだ。
そうして俺1号の記憶と俺2号の記憶は組紐でも編むかのように、混然一体となり、それでいて今現在の意識と記憶はやっぱり別物で、でもやがて、今は過去になり、1号と2号で共有されていく。
いっそ単純に1号と2号に増殖したのであれば、別々の2人の人間として生きていくことも出来たのだろうが、記憶と意識の組紐状態のため、それもまた難しい。だから、一人が外に出ているときには、一人は必ずアパートに残ることにしている。
俺1号は冷凍庫から冷凍パスタを取り出し、外袋を切って中を取り出し、電子レンジに放り込む。それから、缶酎ハイ。
「おまえ、で、愛実ちゃんを誘えたのかよ」
2号が相変わらず寝転んだままで聞いてくる。
「うるせえ」
「どうだったんだよ」
「そのうち、意識が入れ替われば分かるだろう」
「なんだそうか、結局、誘えなかったのか」
2号がバカにしたように鼻で笑った。
「今日は客が多くて忙しかったんだよ」
俺は中古リサイクルショップで週4で働いている。愛実ちゃんはそこのバイト仲間だ。大学2年なので、俺より2つ年下ということになる。
俺は大学で上京したが、志望校には入れず、モチベーションは上がらなかった。むしろライブハウスでのバイトが面白くて、大学はさぼりがちになった。そのままどんどんバイト中心になっていき、結局、大学は2年で中退した。
ただ、去年、コロナ禍になると事態は急変した。ライブハウスでは人員整理をせざるをえなくなり、俺はあっさり職を失ったのだ。
さして貯金があるわけでもなく、さすがに俺は焦った。
それで、端からバイトを応募しまくり、結局、いまのリサイクルショップに落ち着いたのだ。時給はほぼ最低賃金で、資金的には全然楽にはならない。なにしろ、働いている俺は1人なのに、メシを食う俺は2人いるのだ。もっとバイトを増やしたいのだが、リサイクルショップ側にニーズはない。だから、もう一つ、別のバイトを入れようかと思案している。
俺が愛実ちゃんを誘いにくいのには、こうした俺の経済面、それから多分、「引け目」という精神面での現状もある。
電子レンジの温め時間が終わり、チンと知らせてくる。
俺はテーブルの皿にパスタをあけ、生卵を落としてかき混ぜる。格安スーパーで買ってきた128円パスタ。卵は10個98円のパック。意外と美味い。美味いが、しかし。
テレビでコントが終わり、音楽番組に変わる。流行りの曲だ。誰だっけ? ミュージシャンの名前が出てこない。なんだか、同じところを、ぐるぐる回っている感じの曲だ。
新型コロナウイルス感染拡大による自粛は、いわばトンネルだ。ワクチンも出来たし、いつか、このトンネルを抜ける日は来るのだろう。そうなれば、また、ライブハウスの仕事にも戻れるかもしれない。
でもその一方で、俺はうすうす気づき始めてもいる。
そもそも、コロナ禍になる前だって、俺はライブハウスで、所詮は単なるバイトに過ぎなかった。バイトのシフトは深夜も含めて随分と入っていたけれど、俺にはこれといった技術もなく、知識もなく。
あのライブハウス、ほとんど個人経営だから、きっとコロナが無くなっても正社員なんか雇わない。
あー、俺は何をしたいんだったっけなあ。
パスタを啜りながら、思いを過去に飛ばす。
何か、やりたいこと、あったんじゃないかと。
でも、そんなもの、無かった。
高校の時には、ただ単に東京に出ようと思っていただけで。
それ以上のものは、無かったのだ。
ベッドの上で、俺2号が居眠りを始めたようで、気持ちの良さそうな寝息が聞こえてくる。
2
俺が2号に入れ替わり、数日たった夜。
まさに3食昼寝付き、いや、晩飯を早めに食べて、そのあとうつらうつら、夜寝を楽しんでいた時、慌ただしく玄関ドアが開いた。
「おい!」
帰宅したての俺1号が俺2号に言った。
「やばいぞ」
「なんだ、どうした?」
「愛実ちゃんが来る」
「いつ?」
「もうあと30分くらいで」
「マジか」
さすがに俺2号は飛び起きた。
「何でそう言うことに」
「それは、今度、入れ替わった時に確認してくれ。今は時間がない」
「どうしろって言うんだよ」
「悪いが、部屋を空けていてくれ」
それを聞き、俺2号は怒りで眠気が吹っ飛ぶのを感じた。1号も結局は俺なので、2号の俺にも、1号の考えていることが手に取るように分かった。
1号は、俺が2人いることを愛実ちゃんに伏せておいて、それでこの部屋でチャンスがあればと思っている。せめてキスくらいはと。
もちろん、2号の俺としては、1号ばかりに、そんなおいしい身勝手を許すわけにはいかなかった。
「ダメだ」
俺2号は断固として言った。
「俺はここから動かない」
「おいおい」
1号は揉み手でもしそうな勢いだった。
「分かるだろう、俺。こんな、俺が2人いるなんて、愛実ちゃんに知られるわけには」
「だが、それはダメだ」
「いいじゃないか。どうせ今度入れ替われば、愛実ちゃんとの記憶はおまえの記憶にもなる」
「それでも、ダメだ。記憶はしょせん、過去のイメージだ。ナマじゃない。ナマの感触じゃない、それは生きちゃいない、死んでる」
「なあ、頼むよ」
1号が2号を立たせようと引っ張る。
俺2号は断固、立たない。
「おい、いいのかよ、こんな、2人いるところを見られても」
「それでも仕方ないな」
「だって、うまくいけば、この先、おまえが愛実ちゃんとデートすることだって出来るんだぞ」
たしかに、それは魅力的な話ではあった。
1号に先を越されはしても、いずれ、2号の俺にもチャンスはある。そこで、さらに先に行ってやる。そこで、1号を出し抜いてやればいい。
今日は仕方ないか。
愛実ちゃんを誘うことに成功した1号に花を持たせるか。
だが。
インターフォンが鳴った。
「愛実です、着きましたあ」
玄関ドアの向こうから、愛実ちゃんの声が聞こえたのだ。
俺2人は顔を見合わせた。
「どうすんだよ、早えよ」
罵る俺2号に、
「とにかく、とにかくだ。俺が出る。おまえは風呂に隠れていろ。それで、俺は愛実ちゃんを連れて、外へ行く」
了解するしかなかった。
俺は、薄汚れた部屋着のままで、スマホだけ持って風呂場に逃げ込んだ。明かりも消したままにしておいた。
玄関の開く気配。
話し声。
風呂場のドアをきっちり閉めてしまったので、何を話しているかまでは聞こえない。
二人の会話は3分くらい続いただろうか。
やがて、玄関ドアが閉められ、外から鍵をかける音が響く。
用心のため、それから数分は風呂場で待ち、それでようやく部屋に戻った。
蛍光灯は点けっぱなしだったが、テレビは消えていて、妙にがらんとして感じられた。
俺は何だか気が抜けて、ひとつ、ため息をついた。
折り畳み椅子に座る。
この、訳の分からない生活は、この後、どれだけ続くのだろう。
俺はどこへ向かっているのだろう。
それとも、どこへも向かってはいない、のだろうか。
急に、1号の声が聞きたくなった。俺が俺を恋しく思うわけもない。そうではなくて、俺は置いて行かれそうな不安に襲われたのだ。1号が、1号だけが、愛実ちゃんと一緒になって、唯一の俺になって、2号の俺は消滅していきそうな、そういう不安に、俺の脳のすべてが埋め尽くされたのだ。
だから、俺2号はスマホで俺1号に電話をした。
愛実ちゃんとデート中であるのは分かっている。だから、電話には出ないかもしれない。それでも、居ても立っても居られなくなって、俺は電話したのだ。
そこで。
予想外のことが起きた。
スマホから聞こえてきたのは、
「この番号は現在使われておりません」
という冷たいメッセージだった。
3
それで、俺の不安は爆発した。
もう、ダメだった。
俺は部屋着のままで、玄関ドアを開けた。
まぶしかった。
太陽の光だ。
何だと?
今は夜のはずじゃないか。
1号がバイトを終えて帰宅して、それで、愛実ちゃんがすぐに来るといって、それで……。
――ありえない。
こんなの、ありえない。
だが、俺2号を包んだのは、まぎれもなく、真昼間の陽光なのだ。
俺は目を細めながら、アパートの外廊下を歩いた。
何が起きているのか、俺にはまったく分からなかった。
俺は夢遊病者のように階段を降り、道に出た。
季節は春のようだった。
ええと、春で合っているのか?
なんだかもう、さっきまでの記憶が曖昧なのだった。
だんだん、目が明るさに慣れてきた。
目だけじゃない、体のすべてのパーツが、外に慣れてきた。
外の空気はおいしかった。
俺は両手を広げて、大きく深呼吸した。
もう一度、1号に電話をした。
使われていませんのメッセージ。
SNSで、1号を呼び出そうかとも考えた。
でも、止めた。
俺はスマホを放って捨てた。
もう、どうでもいい。
1号のことも、愛実ちゃんのことも、将来のことも。
どうでもいいから、ただ、生きて行こうか。
最初のコメントを投稿しよう!