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手に嫌な汗をかく僕とは違い、穏やかなままの彼はゆるりと笑う。弧を描く唇から視線が離せなかった。
「ほら、開けてみて」
誘うように後ろから囁かれると断ることが出来ない。
ドクドクと耳の後ろから心臓の鼓動が聞こえる。
ただのクローゼットだというのにさっきから悪寒が止まらない。
意を決した僕はクローゼットの取手に手をかけると――
水瀬君は有名人だ。
真っ白な陶磁器色の肌にど誰よりも真っ黒な艶のある髪と同じ深い黒に縁取られた大きな目。
中学という成長期を迎える寸前のほっそりとしながらも長い手足。
そんな一瞬を切り取ったかのような美少年は瞬く間に僕らのクラス以外にも広まった。
誰もが彼に会おうと近づいたが、それも最初だけだった。
みな一様にして口を閉ざすので理由は分からない。
それでもすぐ後ろの席にいるとなればその理由にも気がついた。
水瀬真澄君は嘘をつく癖がある。
他愛もない会話の中、彼の嘘に気づいたのは至極簡単な事だった。
「うちにハムスターがいるよ」
「うちに蛇がいるよ」
「うちに小鳥がいるよ」
その時その場尋ねてきた人によって、彼はいつも違った返事を返す。
後ろの席でそれを聞く度、きっと彼は虚言癖があるのだなとしか思わなかった。
しかしその時々により、彼の飼う生き物は様々な反応を見せる。
時にはとても大人しく利口で、時には卵を温め、陽気に歌を歌う。あまりにも楽しそうに話すそれにみな興味を示し、決まって最後にはこう言うのだ。
「今度遊びに行ってもいい?」
それに対して焦るわけでもなく彼は「勿論いいよ」と朗らかに笑う。
しかし遊びに行った翌日には、あんなに興味を示していた彼らはみな彼から遠ざかっていくのだ。
一体何があると言うのか。
それまでなんの興味も無かった僕だったが、段々と彼の飼っているものが何なのか気にかかるようになってきた。
「ねぇ斉藤君、」
「え?」
思わぬところから自分の名前が呼ばれ、素っ頓狂な声を上げる。
「斉藤君も、水瀬君の飼ってるのが何なのか気になるでしょ?」
ニヤニヤと笑う彼女は隣クラスでも中心にあるグループの一人だ。
どうやら彼の噂が気になるらしい。僕は否定するつもりで口を開いたが、彼の眼差しと目が会った瞬間言葉に詰まってしまった。
何もかもを見透かすような、光の通さない真っ黒な瞳。
日本人は瞳が黒いなんて言うけれど、実際のところ濃い茶色が多いだけだ。
だというのに彼の瞳は本当に真っ黒で、それでいて黒すぎるからこそ何もかもを透かして見えるようだった。
彼の瞳には中途半端に強ばった顔の僕が映っている。
「――うん、気になる」
気がついたら、そう本音で話していた。
そんなつもりのなかった僕はハッとして口を抑える。
「あの、えと……」
「ちょうどいいじゃん!せっかくだから遊びに行ってみなよ!」
しめたとばかりに僕へ進める彼女は他人の肝試しを見学する気分でいるのだろう。
ほんの少しだけ怖くなった僕は慌てて弁解しようとするけれど、にっこりと笑った彼はいつものように返事を返す。
「うん、いいよ」
真っ白な目じりがその時だけはほんのりとピンク色に染まる。誰よりも可愛らしく笑う彼から目が離せない。
「じゃあ……行こう、かな」
結局好奇心に負けた僕は彼のうちへ遊びに行くことにしたのだった。
* * * * *
「やぁ、いらっしゃい」
「お、お邪魔します」
柔らかそうな白のセーターにタイトな黒のジーンズ。これといって特別な装いではないにも関わらず、彼の為に作られたのではないかという程よく似合っていた。
制服じゃない彼を見るのはなんだか新鮮で、変に高鳴る心臓の音を誤魔化すように駅前で買ってきたお菓子を押し付けた。
「ここだよ」
部屋へと案内されるが、これといって変わったものは置いていない。
フローリングの部屋に落ち着いた緑のカーペット。その上に置かれた机や椅子はややアンティーク調だ。
ごく一般的な1人用ベッドの向かいにある窓はカーテンで閉ざされていた。
不思議そうに見つめると、彼は日差しが苦手なのだと笑う。
確かにこんなに色が白ければ日に弱いのも何だか頷ける。
部屋にある物はそれだけで、あとはクローゼットがあるだけだ。
そう、それだけである。
――動物のケージらしきものは見当たらない。
「ふふ、」
予想外に大人っぽくくすりと笑われ、思わず心臓が跳ねる。そんな自分に自分が一番驚いた。
「ごめんね、ここに来るとみんな同じ反応をするからおかしくて」
「いや、その」
ゆるりと笑う彼は中性的でとても美しかった。
うつくしい。
そんな言葉が思わず出てきた自分に驚く。
さっきから何だか驚いてばかりだ。
「――気になるんだね。ほら、こっちに来て」
小さく手招きされ、何だかふわふわとした心地で誘われるまま奥のクローゼットの前へとやってきた。
「あの……」
明らかに動物とは縁遠いただのクローゼットを前にたじろぐと、後ろからまたくすりと笑われた。
「まぁまぁ、気にしないで開けてみてよ」
そうはいっても、何だか怖い。
ドクドクと耳の後ろから心臓の鼓動が聞こえる。
なんでだろうか。
さっきから寒気のようなものを感じで仕方がない。
ただのクローゼットだ。
だというのに彼の雰囲気と相まって何だか未知のものでも出てきそうな気がする。
意を決した僕はクローゼットの取手に手をかけると――
勢いよく開いた先にいたのは僕だった。
なんのことは無い。ただの大きな姿見があるだけだ。後ろにいた彼がさっきよりも肩を揺らしてくすくすと笑い出す。
「何にもいないじゃないか!」
からかわれたのだと気づいた僕は鏡の中の彼を睨みつけるが、彼は動じないまま後ろから顔を寄せた。
真っ白な頬がくっつくくらいの距離、彼の肌を感じで身体が固まる。
「いるよ。もっとちゃんと見て」
笑いながら、彼の唇も瞳も弧を描く。
真っ黒だったはずの彼の瞳には、ほの暗い赤が浮かんでいた。
くすくす
くすクすくス
クすクスくスクす
クスクすクスくスくスくすクス
――彼の笑い声だけが何度も反響するように耳へと返って来る。
何だか頭がぼうっとする。
「ほら、だんだんみえてきた」
鏡の中の自分に視線を戻すと、そこに居たのは僕でも、ましてや水瀬君でもなかった。
まだ2、3歳くらいの男の子が元気よく走り回っている。その姿には何だか見覚えがある。
――これは、子供の時の僕?
と思ったら今度は少しだけ年齢が上がった。
半袖にハーフパンツ姿。田んぼで棒を振り回しているらしい。
どくり、心臓が痛いほど締め付けられた。
――この時のことは今でも覚えてる。
さっと血の気が引くのが自分でも分かった。冷たい指先を温めるように拳を握る。
なんで、と声を出そうとするが喉がつかえた様に声が出なかった。顔が動かせない。
なんで、どうしてと頭の中ではパニックになるものの、鏡の中では時間が進行していく。
田んぼをじっと見つめる幼少期の僕の前を1匹のカエルが跳ねた。
嫌だ。
見たくない。
目を閉じようとするが瞼も固まってしまったように動かなかった。
鏡の中の僕はぴょんぴょんと跳ねるカエルを見つめる。
そして、カエルを無情にも持っていた枝で突き刺した。
胃の中が重苦しい。
口の中には何だか苦い味が広がった。
あの時のことは今でもよく覚えている。
目の前で跳ねるソレが気になった。ただそれだけだった。
子供というのは時にとても残酷なことをするというが、まさに自分はその時を迎えていた。
突き刺したカエルを子供はじっと見つめている。
突き刺した肉の感触ともがき苦しむ姿。それがだんだんと弱まっていく姿が忘れられず、今でもカエルは苦手だった。
その姿が今まさに記憶の中から取り出してきたかのように映し出されている。
「カエルかぁ」
存外明るい声にハッと意識を戻すと、鏡は元の景色を映し出している。真っ青になって震える僕と、嬉しそうに笑う水瀬君が映っていた。
――今のは一体。
いつの間にか速くなった呼吸を戻そうと、肩で息をする。そんな僕に水瀬君は艷めくような笑顔を見せた。
「僕はね、人が内側に隠し持っているものを飼うのが好きなんだ」
薄い唇が弧を描く。彼の白い肌は唇まで白く見せるのだろうか。そのせいか、話す時にチラチラと覗く口の中の赤がやたらと目に付いた。
「ほら、見て」
見たくない。
どくどくといつもよりずっと速い心臓の音が聞こえる。
両肩を掴んだ彼は横をむくよう優しく促す。動きたくないのに、体が勝手にそちらを向いてしまった。
「……ひっ、」
そこに居たのはガラスケースに入った小さなカエルだった。
さっきまで存在しなかったはずの机の横に置かれた小さな台の上へ大事そうに置かれている。上には専用のヒーターらしきものまであるのが見えた。
「ふふ。今日からはうちにカエルがいます、って言わないとね」
バタバタと手足を使って這うようにして逃げ出す少年を静かに見送る。
「あーぁ、また逃げられちゃった」
カエルは初めてなのでもう少し詳しく聞きたかった。
残念な気持ちを抱えながらもカエルの入ったケージを見つめる。
「次はどんな子がくるのかなぁ」
鼻歌でも歌いそうな陽気さで明るく呟いた言葉にカエルだけがパチリと瞬きを返した。
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