いる

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       「本当に大丈夫か、夕見子」 「ええ。大丈夫よ。いってらっしゃい」  作り笑顔で手を振る妻に田之中は若干の不安を覚えながら玄関を出た。  きょうから二泊三日の出張だ。  鬱気味の夕見子を置いて家を空けるのが心配で、いつも辞退を願うのだが、そうそう無理ばかりも言ってられない。  何かあったらすぐ電話するように言ってあるし――  田之中は気を取り直し、駅に向かって足を速めた。  田之中には一人息子のタケルがいた。まだ未就園の好奇心旺盛な三歳児だがやんちゃが過ぎて心が繊細過ぎる夕見子は相当苦労しているらしい。  この間も散歩の途中、ちょっと目を離した隙に側溝へ入り込んで遊んでいたらしい。大事に至ってはないが、ほんの少しでも目を離したことへの後悔で、夕見子は自分を苛んでいた。  朝から晩まで仕事の忙しい田之中は、せめて休日だけでもと家事や育児を担おうとするのだが、完璧主義者でもある夕見子がそれを許さず、手を貸せば逆に思い悩んでしまう始末だ。  子供なんて命にかかわる大怪我さえしなければそこそこ放っておいても大丈夫だし、家事だって手を抜いても構わないからと何度も説得するのだが聞く耳を持たず、そして心底疲れ果てている。  さらに大雑把な田之中の母親とも折り合いが悪く、同居はしていないものの顔を見れば心労を加速させていた。  完璧を求めることは悪いことではない。頑張ることもいいことだと思う。過ぎることがいけないのだ。周囲の助けを借りないで自分自身を追い込む夕見子をどうすればいいのか、田之中も常に悩んでいた。  出張先の駅近く、会社が手配していたホテルに到着して数分後、夕見子からの着信が入った。  嫌な予感にかられながら電話に出る。 「もしもしあなたっ、助けて、タケルが怪物になったの」 「怪物?」  夕見子がよくタケルを比喩する言葉だ。 「タケルが襲ってきたのよ。助けてっ」  泣き叫ぶ夕見子に、 「ちょっと落ち着け。タケルが怪物なのはいつものことじゃないか、どうした?」  田之中は電話越しに夕見子を宥なだめようとするが、興奮状態はいっこうに収まらない。 「違うの、違うのよ。本物の怪物なの。タケルが怪物になったのよ」  携帯から聞こえてくる金切り声に顔をしかめながら、 「タケルはいまどうしているんだ?」 「何とか風呂場に閉じ込めたわ。暴れてたけど、ドアを固定して出て来れないようにしてるの。あなた助けてっ」  田之中は頭を抱えた。  夕見子にとって、とうとうタケルは本物の怪物となってしまったのだ。  やはり水面下で精神状態が悪化していたのだ。出張など断ればよかった。 「わかった、今から帰る。とにかく落ち着いて、変な気を起こすんじゃないぞ」  田之中はバッグを持ち部屋を出るとエレベーターに飛び乗った。出張の交代を願い出るため、最悪クビを覚悟で会社に電話をかける。  たまたま家庭の事情を知る親しい同僚が電話に出て快く交代を引き受けてくれた。上司への報告もやってくれるという。田之中は感謝の言葉を伝え、電話を切ったところでエレベーターはロビーに着き、フロントに事情を説明して急いでホテルを出た。  駅に向かいながら隣市にいる自分の母親にも電話した。  遠慮のない母に夕見子はずいぶん我慢をしていた。来る度に鬱状態になるのを見かね、今は出入りを禁止しているが、今すぐ様子を見に行ってもらえる人は他にはいない。  薄情な息子からの電話に、最初母は素っ気ない返事をしていた。だが、夕見子の状態を伝えると「いつかこうなると思ってたのよ。タケルちゃんが可哀想」と声をうきうき弾ませて「夕見子さんは任せて、すぐ行くわ」と電話を切った。  よけい悪化しなければいいが――不安だが仕方ない。  夕見子も大事だが、タケルの身の安全が最優先だ。  駅に着いた田之中は切符を買って列車に飛び乗った。  玄関を開けるとまだ母の靴はなかった。  夕見子と揉めて帰ってしまったのではと思ったが、物が散乱した廊下を見た田之中は、この状態を放って帰るような母ではないと思い直した。何か事情があってまだ到着していないのだろう。  足元に注意しながら廊下を進み、リビングへと入る。  フローリング床には花瓶や置時計が転がり、おもちゃの車やぬいぐるみも散らばっていた。ところどころに血痕のようなものがこびりついていて田之中は蒼くなった。  カバーのずれ落ちたソファにもたれた夕見子は憔悴しきっていた。田之中の姿を認めると涙を溢れさせ、タケルが怖いと泣きすがる。  もう大丈夫だと背中を優しく叩き、いったいタケルはどんなやんちゃをしたのだろうと考えた。ここまで実母を苦しめるほどの――  いや、神経質だの完璧主義者だのという言葉だけで芯から解決しようとしなかった俺が悪いのだ。  田之中はそう後悔しながら腕の中で震えている夕見子を抱きしめた。  だが、いつまでもこうしてはいられない。早くタケルを冷たい風呂場から救出しないと。 「タケルを見てくるよ」  ソファに優しく押し戻す田之中の腕を「だめよ」と夕見子が強くつかんだ。 「せっかく苦労して閉じ込めたの。アレを出したらもうおしまいよ」  落ち窪んだ目の光がやばい。タケルの怪物化を完全に信じ込み、その妄信を解くのが難しいと思わせる光だった。 「大丈夫、様子を見るだけだから」  田之中は廊下を出て奥の風呂場へと急いだ。夕見子が後ろからついて来る。手には包丁が握りしめられていた。 「なんだそれは。こんなもの離しなさい」  夕見子から包丁を取り上げようとしたが、決して離さない。  もしこれでタケルを刺したらと思うと気が気でなく、包丁を離さないならついて来るなと強く言いつけて廊下で待たせた。  脱衣所に入った田之中の背に「あなた、気を付けてっ」と声がかかる。  風呂のガラス扉のノブにストッキングを括りつけてきつく引っ張り、対向する洗面台の蛇口に括り留めていた。  浴槽の前で小さくうずくまるタケルがガラス越しに見える。  こんな冷たいところに――  田之中の目に涙が浮かんだ。泣き叫んでいないのがせめてもの救いだったが、声が出せないほどのショック状態になっているかもしれないと思うと居ても立っても居られず、急いでストッキングを解き、扉を開けた。  タケルはうつむいたままだった。  具合が悪くなければいいが―― 「タケルっ」  近付いて名を呼ぶとゆっくり顔を上げた。  夕見子と同じアーモンド型の大きな目で田之中を見つめる。  その両目の眼球は糸蚯蚓の塊のように絡み合って蠢いていた。赤の中心で黒目が伸縮を繰り返し、そのたび涙のように目から糸蚯蚓がこぼれ落ちる。  タケルがかぱっと口を開け、幾重にも重なるギザギザの歯列を見せながら、呆然とする田之中に飛び掛かってきた。 「うわっ」  自分の声で目が覚めると、そこはまだ列車の中だった。  夢か――  いつの間に眠ったのか、車内アナウンスが降りる駅名を伝えている。  ぐっしょりと汗を吸ったワイシャツの襟が気持ち悪く、ネクタイを緩めてボタンを外した。  やけにリアルで怖かった――  そう思ったが、俺まで夕見子に影響されてどうするんだと自分を嗤い、叱咤した。  妻と子を守るのは自分しかいないのだ。  列車が到着し、ホームに降りてすぐ電話をかけたが誰も出ない。  夢とは違い、とっくに母親が着いているはずだがいったいどうしたのか。  不安はますます大きくなるばかりで、田之中は急いで階段を駆け上がった。  タクシーで帰宅し、玄関に飛び込む。  三和土には母親の靴が揃えてあり、廊下はきれいで夢と違って何の異変も見られない。  リビングに入ると夕見子と母親が楽しそうに会話していた。 「あら、あなたどうしたの?」 「どうしたのって――お前が変なこと言ってくるから」 「あ、ごめんなさい。あれね、ただのタケルのいたずらだったの。わたしったらふふふ」 「もう、そのせいでわたしまで呼ばれて。大袈裟過ぎるのよ、夕見子さん」  お茶を飲みながら嫌味を言う母に、夕見子がまた気に病まないかと田之中は恐れたが、当の本人は「ほんとすみません、お義母さん」と、まるで気にしていないような明るい顔で頭を下げる。  二人のそばではタケルが大人しく絵本を読んでいた。 「まあ――何ともなかったんならそれに越したことないけど――」  田之中は居心地の悪さを感じた。  こんな雰囲気の良い嫁姑と大人しい息子を今まで見たことがない。一体なにがあったのだ。 「あなた。これからまた出張に戻る?」 「いや、同僚に頼んだからきょうはもういいんだ」 「そうなの。  じゃあお義母さん、今晩一緒に夕飯食べましょうよ。お義父さんも呼んで」 「あら、いいわね」 「わたし、久しぶりにお義母さんの手料理が食べたいわ」 「あら嬉しい。任せてよ。飛び切りおいしいのつくるから」 「わーい、やったあ」  夕見子とタケルが両手を上げて喜ぶ。  こんな場面も今までにない光景だ。なにがどうなっているのだ。 「ほらあなた、早く着替えて来て」 「ああ――うん」  どうなったにしろ、嫁姑が仲良くするのはいいことじゃないか。  田之中はそう自分に言い聞かせ、リビングを出ようと振り返った。  ドア横の壁には大きめのミラーが掛けてある。  そこに田之中の背中を見つめる夕見子たちが映っていた。  三人とも赤い眼球を蠢かせ、目から糸蚯蚓をどろどろ溢れさせていた。
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