猿獣

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「待て、本当に帰るつもりなのか。俺を祓いに来たんだろ」 「こちらが受けた依頼は、風呂場の幽霊のみですから」 「俺があの女を呪い殺すのを放っておくのか」 「大西さんを害する存在は、それとなく退けるあなたが? ご近所の怖いお爺さんがうちにも相談に来ましたよ。夜な夜な獣が枕元に立つってね」  俺はばつが悪くなって、視線を逸らした。  男は扉を開けると、視線だけで振り返って、そこで初めて口元を綻ばせた。 「あぁ、それと、ひとつだけ。あまり母親を舐めない方が良い」  どういう意味だ、と問いかける前に、男はさっさと出て行ってしまった。  静かに扉が閉まると同時に、母がリビングから顔を覗かせた。 「大雨、先生はどうしたの?」 「……次の依頼があるから、帰った」 「やだ! ただでさえお忙しい方だったのに、お茶の支度が遅くなったばかりに、失礼なことをしちゃったわ」 「気にしなくてもいいだろ、別に」  鍵を閉めてリビングに戻ると、テーブルには急須と三人分の湯呑が置いてあった。  添えてあった饅頭を持ち上げる手は、見慣れた人間のもので内心安堵する。 「でも、不安なことがひとつ減って安心したわ。ちょっと気分転換に買い出しに行かない?」 「いいけど。出掛けるなら上着とってくる」 「大雨、ありがとうね」  唐突な感謝の言葉に、二階に上がろうとした俺の足が止まった。   「んだよ、いきなり」  驚きで鼓動が早くなる。それを気取られないように、ぶっきらぼうに返した。  母は寒さを紛らわせるように両手を擦り合わせている。それがまるで、手を合わせているようにも見えた。 「ほら、お母さんひとりだと不安じゃない。きょう大雨がついていてくれて良かったって思ってね」 「……あっそ」  いつも通りを装って階段を上り、部屋に飛び込む。  俺は扉に背中を預けて、ずるずるとその場に座り込んだ。  顔が沸騰したように熱い。 「ばかみてぇ」  騙している、と思っていたが、そうでもなかったのかもしれない。 もう、あんな寂れた石の、偽りの神には戻れそうになかった。
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