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春である。
電車に揺られて辺りを見ると、誰も彼もがマスクをしている。
ご時世だからということもあるが、春だからでもある。
「っくしょん!」
誰かがくしゃみをした瞬間、車両内の空気が緊張に包まれた。
車両内にいる全員がその人を注視しないように意識をしているのが分かる。
無論、私もそうだ。が、意識はどうしてもそのくしゃみをした人間に向かう。
「うあ、あ……あ……」
視界の端に映った光景は、やはりというか、惨たる有様だ。
頭部が花弁のように赤桃色の肉を見せるように開き、脳が露出している。
能からは一輪の花が咲き、口が生じ、そこから声にならない吃音が洩れている。
防毒マスクは完全に破壊されて床に落ちており、そして同時にバーガーらしきバンズも落ちている。
恐らく食事を取ろうとして、ウイルスにやられたのだろう。
迂闊としか言えない。
そう思っている間に、誰かが呼んだのだろう車両清掃員が姿を現した。
何重にも密閉されている防疫服に身を包み、消毒水の入った金属タンクを積んだ完全装備である。
清掃員は表情の見えぬ顔を感染者に向けると、手に持った銃の引き金を即座に引いて消毒水をレーザーのように発射した。
言葉に表現しようもない断末魔の絶叫を上げながら、感染者は消毒水によってドロドロに溶け出し、車両の床に染み込んでいく。
完全に消滅したことを確認すると、清掃員は車両内の客に向かって軽く一礼し、そのまま去っていった。
例年通りのこととはいえ、気が滅入らずにはいられない。
ややもして駅に着くと、誰もが整然と並んで降りてゆく。
無駄に埃を立てるような真似はしない。
誰もがくしゃみ一つで人間を辞めたくないからだ。
無論、私もそうである。
家に帰ったら滅菌消毒を念入りにしなければならない。
それをしなければ人としての尊厳を失って死ぬのだから、面倒だなんて言ってられない。
まあ、ちょこっとばかり面倒だけれども。
そんな世界に生きている私を、私は褒めてやりたい。
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