0人が本棚に入れています
本棚に追加
病院の屋上に出て、応答ボタンを押すと、男の目の前に大きな扉が現れた。くぐった先は真っ白な空間に繋がっていて、そこでいくつもの画面を見つめながら、別の男がタブレットを操作していた。
「A―765。進捗はどうだ?」
「順調です、C―005。既にこの時代のターゲットは全員始末しました」
「その割には、報告が遅かったじゃあないか。一体何をしていたんだ。シガレットを見せたまえ」
C―005と呼ばれた、口調からして上司と思しき男が顔を向け、A―765と呼ばれた男に向かって手を出す。A―765から、先ほど少年に打っていたペンのようなものを受け取ると、しばらくそれを弄りまわして、
「……なんだこれは。生命除去システムだけじゃなく、救命システムまで使用しているじゃないか。おい、まさか現地の人間に使ったのか」
「一人だけですよ」
「勝手なことを!」
C―005はシガレットを床に叩きつけた。
「歴史を操作するのがどれだけデリケートな作業かわかっているのか! そこらへんにいる蜘蛛を潰す行為だけでも未来は変わるんだ! そいつが喰らうつもりだった蚊が生き延びて、誰の血を吸うのか、血を吸われた人間が薬を買いに行くのか行かないのか、買いに行くときに歩くのか、車を使うのか……車なら事故を起こす可能性だって勿論ある。ほんの数分の運転の間で一瞬でも痒みに意識を逸らし、ハンドルの切り替えを一秒遅らせただけで、目の前に飛び出してきた子供を避ける急ブレーキが間に合わないことだってある。虫けら一匹の命が、子供一人がもつ未来の可能性一つを丸ごと切り離す羽目になる可能性だってゼロじゃないんだ。人間の生殺与奪ともなればなおのこと。
いいか、我々管理庁はただ無作為に殺人を犯しているわけではない。コンピュータによる綿密な計算の元、消し去るべき命と救うべき命を常に厳密に精査しているんだ。世界にとって害悪となる存在を、あるいは死ぬことで有益となる存在を、最も余計な影響が少ないタイミングで消し去ることで、我々の時代で発生した凶悪犯罪を予め防ぐのが我々の役目だ」
一人目の老人が打ち立てる一つの政策は、彼らの時代にとって、戦争を肯定する要因となる厄介な代物だった。
後にとある国で起こるバイオテロは、それに利用されるウイルスを作り出した女性を、まだ幼い少女であったこのタイミングで殺すことでしか発生を防げなかった。
青年の死体解剖によって発見された、不自然な腫瘍の研究が進めば、細胞の免疫力を一気に向上させる画期的な薬が作れる。腫瘍は自然治癒によって消えてしまうものだったため、彼が退院してしまえば、そのまま発見はさらに数百年遅れることになっていた。
「お前が殺した政治家の老人にしたって、時間とタイミングを綿密に計算した上で殺している! その結果生まれる別の悪意も、我々の手で排除しきれるとコンピュータが計算で弾き出している。それを貴様、救命システムの使用すらまだ認められてない見習いの癖に……しかもよりにもよって、コンピュータの指示にない命を救うなど! 死ぬはずだった命を生かすことは、殺すこと以上に未来の枝分かれが激しいんだ! まして子供だと? そいつが将来どんなことに興味を持ち、その界隈にどういった新しい概念を持ち込み、我々の歴史にどう影響を及ぼすか……!」
喉を枯らしてなおも、怒り収まらぬ様子のC―005に、A―765は待ったをかける。
「そこなんですよ、ほら見てください、コンピュータのこの計算結果を」
タブレットを目の前に突き出し、先ほど自分が見ていたのと同じ、少年のプロフィールと、その生存、死亡した際の歴史の枝分かれを見せる。忌々し気に文章をタップしていたC―005は、やがて目の前の部下と同じように、驚愕に目を見開いた。
「これは、まさか……」
「ね?」
自分と同じようにページを急ぎ足で捲り始めるC―005を見て、A―765は、嬉しそうに微笑んだ。
「彼の未来は、歴史に一切の影響を及ぼさないんです。どのタイミングで生きていようが、死んでいようが、彼がどんな努力をしても、未来につながるものは何も残しません。だから生かしていても何も問題はないんですよ!」
仕事に就いたばかりの見習いだからと、除去の研修ばかりさせられて、うんざりしていた。人を救うことも早くやってみたくって、殺した相手の恨み言も聞き飽きて、お礼も言われてみたかったA―765は、満足げに笑った。
そして心の中で改めて、少年に礼を言う。
歴史に無関係な存在でいてくれてありがとう、と。
最初のコメントを投稿しよう!