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 リストの中身が殆ど×になった頃。男はまた一つの病室を覗き込む。最初の老人がいたのと同じ、一人用の病室。壁や窓際に、サッカーボールや、マラソン用のスニーカー、絵本なども置かれている。小さなバスケットに無造作に放り込まれているのは、包装されたチョコレートだろうか。そのそばのベッドに、患者が横たわっている。キョトンとした顔で男の方を見ていた。  顔を確認して、リストを見る。対象外だ。男はすぐに踵を返そうとして、 「ねぇおじさん」  幼い声が、男を呼び止めた。普段なら無視するところだったが、ささくれた心に、無邪気な声が妙に刺さり、男はゆっくりと振り向く。 「おじさん、だぁれ? 新しい先生?」  ベッドの上で上半身を起こしたのは、幼い少年だった。声は穏やかで、張りがない。元は金髪だったのだろうが、色素が抜け、くすんだ灰色のようになっていた。 「いや……」  男は少し考えた。 「おじさんは、先生になる勉強をしているんだ。この病院で、他の先生に教えてもらっている」 「先生に、教えてもらってるの? じゃあ、生徒さんだ。ボクと同じだ」  少年はコロコロと笑った。男は椅子を引っ張り出して座る。 「君も、生徒さんなのかい?」 「うん、そうだよ。ボクは学校にいけないから、ここで勉強を教えてもらってるの。だから、おじさんとおんなじだ」  チラリと見えたリストによれば、彼は十二才だった。けれど、少年の顔と、病衣から覗く首元や手は、同じく個室に篭っていたあの老人よりも細く、枯れていた。微笑みは穏やかだが、諦観しているようにも見える。 「病気、重いのかい」 「ちょっとね」  慣れたように応えてくる。一息吸って、少年の方が少し身を乗り出してきた。 「おじさんは、迷子なの?」 「……いや、お仕事の最中だよ。終わるまで帰れないんだ」 「お医者さんのお仕事……じゃあ、誰かを治してるの?」 「いや……」  珍しい来客に興味を抱く少年の視線から逃げるように、男は顔を逸らす。 「逆だよ。おじさんは、誰かを治しちゃいけないんだ」 「お医者さんなのに? あ、まだ生徒だからか」 「そんなところさ」  情けないよ、と小さく呟いて、男は顔を伏せた。 「……私は、こんなことだけがしたかったんじゃない。私の手は、こんなことしか出来ないわけじゃない。もっとたくさんのことが出来るはずなんだ。それなのに、どれも許されない。私なら、人を治すことだって……なのに……」  蛇口からこぼれる水のように、男はポツポツと、初対面の子供相手に呟く。少年は、黙ってそれを聞いていた。そして言葉が途切れると、少年が口を開く。 「おじさんは、色んな事が出来るんだね」 「……今は、一つしか出来ないけどね」 「あは、じゃあやっぱり、ボクと同じだ」  男は意味が分からず、顔を上げると、少年に視線を向けた。 「ボクもね、本当は色んな事が出来るはずなんだ。皆言ってるよ。まだ若いのに。まだこれからなのに、って。でも、今はここでじっと本を読むことしかできない。他のことは何も出来ないんだ。お父さんとお母さんは、色んなものを持ってきてくれるけど、どれも見てるだけでまだ使ったこともない。勉強だって毎日ほんのちょっぴりで、本もすぐに頭が疲れちゃうんだ」  言われてみれば、サッカーボールは埃が溜まっていたし、スニーカーは靴底のシールも剥がれてない。使った形跡があるのは本くらいで、それもまだ一冊しか広げてないようだった。チョコレートも食べられないけど、匂いが好きだから置いてるんだ。と、少し恥ずかしそうに、少年は笑った。 「色んな事が、したかったんだけどなぁ……。おじさんが先生になったら、ボクのこと、治してくれるのかな?」  寂し気に少年が呟く。男は逃げるように目を逸らす。 「……ごめんな。次の勉強をしなくちゃいけない時間なんだ。おじさんそろそろ行かなくちゃ」 「わかった。ボクも、少し眠いや。久々にすごくお話したから……」  男は椅子から立ち上がり、振り返らずに病室を出ていく。少年はベッドに倒れ込みながら、小さく手を振っていたけれど、男が扉を閉めると、糸が切れたように手をシーツの上に落とし、そのまま寝息を立て始めた。
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