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白衣を着て、悠々と病院の廊下を歩く男が一人。
男は医者ではなかった。それどころか、医療に携わる人間ですらなかった。が、医者も、患者も、すれ違いざまに彼を一瞬気に留めた者は、彼が行ってしまうとすぐに何事もなかったかのように歩き出す。
男は患者のいる病室を一つ一つ覗き込み、その顔をちらりと確認して去っていく。
呆けた患者を尻目にそんなことを何度か繰り返す中、面会謝絶、とプレートの下げられた個室の扉に手をかける。少し目を細めると、鍵がガチャリと開いた。
中にいたのは、とある政治家だった。
枯れ木のような身体をベッドに横たわらせ、歳と現状に似合わぬ、野心的な目で、天井を睨みつけている。
よく言えば革新的で、悪く言えば過激で、もっと悪く言えば強引で暴力的で自分勝手と評判なその老人は、選挙を前にして、複数の癌が見つかり入院中だった。
老人は男の突然の来訪に驚き、目を見開いている。男は堂々とベッドのそばまで近寄った。そして腕時計の針が特定の時間を示すと、
「おい、誰だ貴様。一体なにを……むぐっ」
皺くちゃの口が何かを言おうとするより早く口を塞ぎ、ポケットからボールペンのようなものを取り出し、その首に押し当てた。
「悪く思わないでくださいね。貴方が病を治してしまうと、我々が困ることになるんですよ。貴方の存在は、この国にとって、とてもよろしくない」
呟く男の腕の中で、老人はまどろみ、男の胸倉を掴もうとしていた手は、力なくシーツの上に落ちた。
「……たす、け」
蚊の鳴くような声を、男は無視した。横の計器を除けば、ゆっくりと生命反応を示す信号が緩やかになっていく。病院側には、眠っているうちに体力が尽きたように見えるだろう。
男は医者ではなかった。
男は、人殺しだった。
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