第1話

1/1
前へ
/8ページ
次へ

第1話

パラパラと小雨の降る金曜の夜、そのヒトは私の前に現れた。 「こんばんは」 驚くほど色が白くて、上品なブロンドの髪にブルーグレイの瞳。すらりと高い背に華奢な体格は、誰もが振り返るトップモデルそのものだった。 「驚かせてごめんなさい。あなたを見かけたその日から、ずっと気になっていました。今日初めて勇気を振り絞って声をかけたんです。少しだけ、お茶に付き合ってはもらえませんか」 しっとりと濡れたビジネス街の灯りが、アスファルトに反射している。彼は緋色の傘を傾けた。 「一緒に、いかがです?」 私は常磐色の傘を折りたたむ。 一目惚れなんて、自分の人生にあるわけないと思っていた。それなのに、吸い付けられるようにその緋色の傘に入る。 もしかしたら、左の首筋にあるほくろの位置が、別れたばかりのあの人に似ていたからなのかもしれない。彼はにこりと微笑んだ。 「行きましょう」 並んで座ったコーヒーショップのガラスを、雨はやさしく通りを滲ませる。 「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」 「岡田真緒といいます」 「そう。僕はルイ」 細く長い指が、優雅にカップを持ち上げる。一口だけ口をつけて置くその仕草まで、よく出来たガラス細工のように繊細だった。 「あ、ルイさんですか。そうですか」 そっか、偽名なのかな。 そうだよね。 私もバカみたいに本当のコトを言うんじゃなかった。 「ごめんなさい。僕には名前がないんだ」 「名乗れないってこと?」 「そう」 ついた肘に頬を乗せ、にこりと微笑む。 「真緒は何が好き? やっぱりお花とか鳥が好きなの?」 「どこかでお会いしたことがありましたっけ」 こんな凄いイケメンと会ったことがあるなら、覚えていないはずはないんだけど。 「会ったよ。だけどそれは秘密」 落ち着いた笑みを絶やさないギリシャ彫刻のような顔は、本当に大理石で出来ているみたい。 「あの、肌がとてもきれいですね。どんなお手入れをされてるんですか? ちょっとだけ触ってみてもいいです?」 「じゃあキスしよう」 そう言って近づく横顔に、驚いてとっさにうつむいた。 「そ、そういうのは困ります」 「はは。かわいい」 彼の手が私の手に重なった。 「ね、僕のこと好きだったでしょ。それはどこから来たの?」 「え?」 私は自分の記憶の中をぐるぐると駆け巡る。だけどこんなヒトに会った覚えは一切ない。 「もしかして人違い?」 その問いに、彼は急に動かなくなった。 何かを一生懸命考えているようにも、全くの無心になってしまったようにも見える。 やがてゆっくりと会話を再開した。 「そうだね。人違いではないけれども、確かに同一人物というわけではない。約840万の組み合わせからのランダムアソートだからね、ややこしいんだ」 優雅に微笑む。 「大丈夫。僕の見立てに間違いはない。今もう一度確認した。君にも僕を好きになる要素は含まれている。それがどこにあるのか教えてほしい」 意味が分からない。 そんなことをいきなり言われても困る。 じっと見つめる彼とは、目が合えば優しく微笑むばかりで、会話はどこまでもかみ合わなかった。 彼は結局、最初の一口以外全く手をつけなかったコーヒーカップを持って立ち上がる。 「もう帰ろう。時間だ。少し長すぎたくらい。途中の駅まで送るよ」 たっぷりとカップに残るそれを、ためらうことなく流しに捨てた。 彼はまたにっこりと優しい笑みを浮かべる。 「また会いたいんだけど。いい?」 緋色の傘が差し出される。私はその中に入る。 「連絡先、交換します?」 「あぁ、いいね」 地下鉄へ下りる階段の前で、彼は手を振った。 私はペコリと頭を下げ電車に乗った。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加