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バイオリンの腕
「なんだかごめんね。まさかあんなに弾けないなんて思ってもみなかったから……」
演奏体験のブースを出たあと、恋人がすまなそうな表情で僕に言った。
「いいよ別に謝らなくっても。つまり、僕には楽器の演奏なんて致命的に向いてないってことがわかったから」
そんな会話を交わしていたときだった。ひとりの男が僕たちに声をかけてきたのは。ネクタイはしていなかったが、高級そうなシャツとジャケットをきちんと身にまとい、つややかな整髪料できちんと髪を分けた中年の男。
「さきほどのバイオリンの演奏を聴きました」
「いや、演奏というほどのものでもないんですけど……」
この男は僕になんの用事だろう? 僕が不審に思っていると、男は唐突に提案した。
「ところで、あなた様のバイオリンの腕を見込んでお頼みしたいことがあって、お声をおかけしたところです」
恋人も不思議そうな表情で、男と僕とに交互に視線を向けている。
「バイオリンの腕?」
僕が聞き返すと、男はにっこりと微笑んでうなずいた。何か裏がありそうな微笑みという感じではない。どちらかと言えば営業的な微笑みだった。
「はい。うちのレストランでバイオリン弾きをしませんか?」
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