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シフト
「昨日の土師さん、凄かったよ。びっくりしちゃった」
放課後、私は幼馴染で親友のフミと二人で教室に残り話しこんでいた。とりとめなく、どこにでもあるような平凡な内容の話ではあるが、私にとってフミと過ごす貴重な時間である。そこに同じクラスの女子三人組に割り込まれたことに少しだけ苛立ちを覚えたが、おくびに出さず答えた。進級に伴いクラス替えがあった所為でこの三人の名前が分からない。
「昨日って?」
誰かに凄いと言われるようなことは私には何もない。昨日は学校が終わってフミとデートをしていた。デートと言っても私が勝手にそう呼んでいるだけで、ただ遊びに行っただけなのだが。フミは私のことを友達としか思っていないだろうが、私はフミに特別な感情を抱いている。だから私はただ遊びに行くことをデートと言う。フミと過ごす時間が愛おしい。
「とぼけなくてもいいのに」
「そうだよ」
「格好よかったよ」
女子三人組が口々に言う。
私には何が何だか分からず、首をひねった。助けを求めようとフミを見ると、フミも不思議そうな表情を浮かべていた。
「仁美が何かしたの?」
フミが思わず口を挟んだ。
「仙波さんは一緒じゃなかったんだ」
「土師さんと仙波さん仲いいから一緒だと思ってた」
フミ、本名仙波文奈。フミは容姿端麗、運動神経抜群、頭脳明晰と絵にかいたような優等生で周りの人が一歩引いてしまうのか、常に苗字にさんづけで呼ばれる。私も苗字にさんづけでしか呼ばれないが、それはフミ以外に仲のいい人がいないからだ。
それでいい。フミのことを名前で、ましてや親しげにフミ、などと呼ぶ人は私一人でいい。そして私の名前を呼ぶのはフミだけがいい。
「それで、仁美がどうしたの」
フミは苛立った様子も見せず再度聞いた。話の本筋が見えず、あっちこっちに飛んでいく。
「土師さんが駅前でいかにもチャラそうな男にナンパされててさ」
「その男がしつこくてね。遂に土師さんの手を無理矢理握ってどこに連れて行こうとしたの」
「その瞬間、土師さんが頭に回し蹴り! その男、気を失ったのかしばらく動かなくなった」
女子三人組は私を囃し立てた。格闘技出来るんだ、強いんだね、筋力差があるし下手したら危ないよ等々、身に覚えのないことを言われ困惑してしまう。あんなことしたらパンツ見えちゃうよ、見る暇もなかったでしょと三人は盛り上がったまま教室を出て行ってしまった。
三人がいなくなったことで少し安心した。フミ以外と話すのは少し緊張してしまう。しかもそれが身に覚えのない話ならなおさら。
私はフミと顔を見合わせた。
「仁美、昨日の放課後は……」
「フミとデ……遊びに行ったじゃん」
デートと言いそうになり慌てて言い直した。
「だよね。ずっと一緒にいたよねえ」
フミが腕を組み、首をかしげながら唸っている。
私とフミは同じマンションに住んでいて、部屋が隣同士だ。親同士の仲が良く、気が付いたらフミとよく遊ぶようになっていた。最初の内は、二人とも引っ込み思案だったからか、ぎこちなかった気がする。それでも私達は気が付いたら仲が良くなっていた。いや、引っ込み思案というのは多分私の記憶違いだ。フミは明るく人当たりがいいから。
私はいつからかフミに特別な感情を抱くようになっていた。
「他人の空似かなあ」
フミが納得したように呟き、私達は教室を出た。今日もデートだ。
翌日の放課後も教室でフミと二人で話しているところに、女子二人組が話しかけてきた。昨日の三人組とは違う。ただやはり名前と顔が一致していない。
そして何を言われるのか何となく察しはついていた。
「土師さんって凄いんだね」
「びっくりした」
昨日と同じ会話の流れに私とフミは笑いそうになってしまった。今日はどんな身に覚えのないことで褒められるのだろうか。
「私何かした?」
話しかけてきた二人は顔を見合わせてから笑いながら言った。
「謙遜しなくても」
「そうそう。土師さんにとっては当たり前かもしれないけど、私達からしたら凄いことなんだよ」
どうしてさっさと本題に入らないのだろうか。昨日の三人もそうだが、話が進まないし見えてこない。私とフミが過ごす時間を奪わないで欲しい。
「駅前で外国人に道案内してたじゃん」
「何語かは分からないけど、英語じゃない、別の言葉で。土師さんはトリリンガルなの?」
トリリンガルどころか英語もまともに喋れない。自慢ではないがフミと違って私は勉強が出来ない。英語は苦手中の苦手で、外国人と会話など無理だし、ましてや別の言語なんてものは習得していない。
私のそっくりさんは私と中身がまるで違うようだ。
二人に褒められ居心地が悪くなり、私は何度も否定した。最初は信じてもらえなかったが、私があまりに否定するものだから、不思議そうな顔をして二人は教室を出て行ってしまった。
「仁美、昨日は……」
昨日も同じようなことを言っていたなと思い、私は自然に笑ってしまった。フミといる時だけが自然体でいられる。
「昨日も遊びに行って、一緒に帰ったでしょ」
「そうだよねえ」
フミが怪訝な表情を浮かべ唸る。
「これはまるであれだね。ドッペルゲンガー」
フミの言葉にはっとした。似たような話を聞いたことあると昨日から思っていたが、それだ。
「ドッペルゲンガーって見たら死ぬんじゃなかったっけ」
私は馬鹿馬鹿しさ半分、怖さ半分で聞いた。
フミは首を傾げ、制服のポケットからスマホを取り出した。
「私も詳しく知らないけど、確かそんな感じだったかな」
フミがスマホをいじりながら喋る。しばらくして、スマホの画面を私に見せてくれた。そこには誰でも編集出来るネットの百科事典とでもいうページが表示されていた。
「このページによるとドッペルゲンガーを本人が見ると死ぬらしいね」
「勘弁してよ」
私はフミからスマホを受け取り内容を読み始めた。情報量は多くない。
私だってドッペルゲンガーなんてものを信じているわけではない。数あるオカルトの一つで、現実的でない。だが生活圏内で私と見間違える程のそっくりさんがいるというのは気味が悪い。
「仁美の生き別れの双子とか?」
フミは何とかこの不思議な現象に理由を付けようとしているようだ。私はフミにスマホを返した。
私は少し呆れながら言った。
「家は平凡な家庭だよ。そんなドラマチックなことはないはず」
それでも、ドッペルゲンガー説よりはましか。
フミはもう一度スマホに表示されているページを読み直してから聞いた。
「容姿については本人と同じだってことは分かるけど、内面に関しては何も情報がないね。仁美のドッペルゲンガーと仁美は性格が大分違うよね。人を蹴ったりしないでしょ」
「やるならフミだよね」
実際、フミは中学入学まで空手をやっていた。フミの運動神経は遺憾なく発揮され、結構強かったらしい。母親からそう聞いただけで、フミが空手をやっている姿を知らないから本当かどうかは分からない。それでもフミの運動神経なら、納得出来てしまう。そして、それを鼻にかけないフミが好きだ。
フミが酷い、と抗議の声を上げ、私達は笑い合った。それきりドッペルゲンガーの話題は有耶無耶になった。
さらに翌日も私がいないはずの時間帯に私を見たという目撃情報があった。一昨日、昨日のクラスメイトとはまた別の同級生だった。名前は確か鈴木さんだったはず。
「土師さん、昨日ショッピングモールにいたよね」
四国の田舎で、遊ぶ場所の定番というより遊ぶ場所などそこしかない。近くにお城やサイクリングロードはあるが学校帰りに行く場所ではない。フミとデートするのもショッピングモールだが、昨日は真っ直ぐ家に帰った。
「昨日は行ってないよ」
「本当に? メイクしてて一瞬分からなかったけど、あれは土師さんだったよ」
三日連続で私のそっくりさんが目撃されたことになる。それも同じ人ではない。ここまで来るとドッペルゲンガーとは言わないが、私のそっくりさんが生活圏内にいることを認めないといけない。今までそんなことなかったのにだ。
「それって何時頃?」
フミが口を挟んだ。鈴木さんは少し考え込んでから言った。
「学校終わってショッピングモールに行って、すぐ見かけたから五時くらいかな」
その時間ならフミと一緒に帰っていたはず。ショッピングモールにいるはずがない。
「ねえねえ、もしかして、土師さんデートだった? メイク気合入ってたし、制服なのに何かおしゃれな雰囲気醸し出されてたし」
私は違うよ、とやんわり否定し苦笑いした。私ではない人間が私のように褒められても嬉しくない。それにフミ以外に可愛いと言われても私には何も響かないのだ。
鈴木さんは部活行くね、と言い教室を出て行った。
見るとフミが少し不安そうな顔をしていた。
「昨日一緒に帰ったよね」
「うん」
「帰った後、デートに行ったの?」
「……え? 帰ってからはずっと家に居たけど……」
私は思わぬ質問に面食らった。ドッペルゲンガーがどうのという話になると思っていたのだが、私がデートしたかが気になるらしい。
「付き合ってる人はいるの?」
フミが目を泳がせ、おずおずと聞いた。
「……いないけど」
初めて見るフミの慌てっぷりに少し笑いそうになりながらも、困惑してしまう。そんなに動揺することなのだろうか。
「そう。よかった」
フミが小さく呟いた。
そう言えば、フミと恋愛の話をしたことがなかった。小さい時からずっと一緒にいるのが当たり前で、それは高校生になっても変わらない。フミは可愛いからモテるが、付き合ってる人がいるという話は聞いたことがない。それでも、面と向かって聞くのが怖い。
でも、この流れなら。少しだけ鼓動が速くなり、唇が渇いた。
「フミは、どうなの」
「いないよ」
フミが食い気味に答えた。私は安心し、胸をなでおろした。もし、いると言われたら正気でいられなくなるだろう。安心はしたが、不気味な問題が残っている。むしろそっちが本題だったはずだ。
「三日連続で仁美のそっくりさんというかドッペルゲンガーが現れたってことは、もう存在を認めるしかないね」
フミが落ち着きを取り戻したのか、本題に話を戻した。私の心臓ももうばくばくしていない。
「そうだね。今まで私そっくりな人なんていなかったのに。何だか気味が悪い」
私は率直な思いを口にした。
「そう、気味が悪い。でも実害はない」
「実害?」
「仁美のそっくりさんもといドッペルゲンガーは悪さをしていない。だから目撃情報があっても仁美は責められていない。むしろ褒められている」
確かに、と私は頷いた。
それと、三件の目撃情報で分かったことがある。私のドッペルゲンガーは、自分がなりたい自分なのだ。
私は強くありたい。それは人間的に、というより腕力や格闘技等を身につける物理的強さを求めている。決してナンパしてきた人をやっつけたいとか、喧嘩で負けたくないという野蛮な理由ではない。何かあった時大切なフミを守れるものが欲しい。でも今の私だと、何かあった時に守ってくれるのはフミで、私では何も出来ないだろう。フミは勇気と度胸と空手で磨いた技を持ち合わせている。
頭のいい人間でありたい。学年一位のフミより頭がよくなる必要はないが、せめてフミと肩を並べるだけの頭脳が欲しい。私はいつも平均点程度しか取れない。少しだけ、ほんの少しだけフミに劣等感を感じている。私のイメージする頭のよさが、トリリンガルというわけではないが。ただ、初対面の人と堂々と会話することが出来るようになりたい、という私の願望がそこに含まれている。
そして何より、可愛くありたい。誰が見ても可愛いと言うフミの横に相応しい私でありたい。
私のそっくりさんは私の理想を全て持っているようだ。私にはないもの、私が欲しているものを全て備えている。
容姿端麗、運動神経抜群、頭脳明晰なフミに相応しい友達でいたい、もっと言えばフミと特別な関係になりたい。ずっと願ってきた私の理想像が具現化したとでもいうのだろうか。
黙り込んでしまった私をフミが心配そうに見ていた。
「仁美、大丈夫?」
「大丈夫」
私は無理に笑ってフミを心配させないようにした。
ドッペルゲンガーがなんだ。私の上位互換だからなんだ。フミと一緒にいるのは、これからずっと一緒にいるのは私なのだ。ドッペルゲンガーを本人が見たら死ぬらしいが、ドッペルゲンガーが私の目の前に現れようものなら、どんなことをしてでも生き延びてやる。
私は固く心に誓った。
最初は小さな違和感だった。
私のそっくりさんの目撃情報が途絶えて三日、放課後になり、今私はフミとショッピングモールでデートをしている。毎回の事だが私は浮かれていた。しかも今日は、フミが私にぴったりだと褒めてくれた服を買ったから余計に。
平日にも関わらず、人が多く、賑わっている。私達は話ながら歩いているが、私達の間を人が通ったり、人を避けたりする所為で話が途切れ途切れになってしまう。
私は歩きながら、勢いでフミの手を握った。
「はぐれるといけないから」
私は俯きながら言った。自分でも顔が赤くなっているのが分かるくらい熱い。普段こんなことしたことないのに。
フミは少し驚いたように私を見たが何も言わず握り返してくれた。フミも少し嬉しそうに見えたのは私の気の所為だろうか。私は嬉しくなり、気分が最高潮に盛り上がったところで視界の隅に何かを捕らえた気がした。
その違和感に思わず立ち止まる。
手を握ったままだったフミが、後ろ側に引っ張られる形となり立ち止まった。
「どうかしたの?」
「いや、ちょっと……」
違和感の正体が何か分からない。それでも何か違和感がある。
雑踏の中、私の視界の隅で、何かが――。
あり得ないものを認識した瞬間、突然私の腕が引かれ、再び歩き出していた。どうやらフミが無理矢理私を引っ張ったらしい。私はフミに引かれるように黙って歩き、しばらくしてからフミの横に並んだ。手はつないだまま。
「仁美、前だけ見て」
私は黙って頷いた。
「後ろを見ないで。見ちゃいけない」
フミにも見えたらしい。私と全く同じ顔をした人間が。
「見ちゃった。どうしよう」
私は震える声で、小さく呟いた。手も震えてきた。
ドッペルゲンガーを本人が見ると死ぬ。いつだかフミのスマホで得た情報が頭を駆け巡っていく。そう、はっきりと見てしまった。私と同じ顔を、私自身を。私のドッペルゲンガーは無表情に私を見ていた。20m程度の距離で、目と目があった。
フミが力強く手を握り返してくれたお陰で少しだけ落ち着きを取り戻す。
「あれは、仁美の顔だったね」
フミの声も心なしか震えている。フミにも怖いものがあるのかと少し場違いなことを考えてしまった。恐怖で思考回路がおかしくなっている気がする。
「うん、私だった。ドッペルゲンガーを見たら……」
「止めて」
私が続きを言う前にフミが勢いよく遮った。フミの顔が強張っている。幼馴染のこんな表情初めて見た。
「大丈夫、私が付いてる。私が仁美を守るから」
初めてドッペルゲンガーを目撃してから、ドッペルゲンガーのことを意識せざるを得なくなった。他人からの目撃情報はぱたりと止まった。どうやら私とフミにしか見えないらしい。
週末にフミの家族と私の家族で出掛けた時、ドッペルゲンガーを見てしまった。
10m程先に私がいる。
私とフミはその場に固まり、一歩も動けなかった。向こうは相変わらず無表情で私達を見つめている。私は視線を逸らせず、私自身と見つめ合った。やがて周りの景色が視界から消え始め、私のドッペルゲンガーだけしか視界に入らなくなっていく。
「どうした」
後ろから誰かに声を掛けられ、我に返った。驚いて後ろを振り向くとフミのお父さんがいた。
「何かあったのか」
フミのお父さんがもう一度聞いてきた。
私はフミと顔を見合わせてしまった。正直に言った方がいいのだろうか。いや、こんなこと信じて貰えるはずがない。フミも少し困った表情を浮かべている。
「何でも、ないです」
私は絞り出すように応え、視線をドッペルゲンガーがいた場所に戻した。既にそこは誰もおらず、ドッペルゲンガーは跡形もなく消えていた。
私とフミは会話が聞かれないように家族から少しだけ離れた。
「フミ、見た?」
何とは言わないで聞いた。
「見た。仁美がもう一人……」
どうして私とフミにしか見えないのだろうか。理屈に合わないことに辟易してしまう。いや理屈や理論をこねくり回しても仕方のないことだ。ドッペルゲンガーなんて存在自体が理屈に合わないことなのだから。
「それと、気になることがあるんだけどさ」
私は黙って続きを促した。
「ドッペルゲンガーとの距離が近くなってるよね。初めて見た時は20m位離れてた。何となくいるなって感じだったけど、今回はかなり近づいてる」
私はぞっとした。言われてみたらその通りだ。ドッペルゲンガーはこれからさらに私に近づいてくるのだろうか。今のところ何か危害を加えられたわけではない。それでもこれからどうなるか分からない。何よりネットの噂通り私は死んでしまうのだろうか。
私はフミの手を両手で握りしめた。
まだ死にたくない。これからもフミの隣にいたい。願いを込めていつまでも握り続けた。
月曜日というのは気分が優れない。大好きなフミと一緒に学校に行くのは楽しいし、放課後フミと遊びに行くのも楽しいが、それだけだ。それ以外は楽しくない。
さらにドッペルゲンガーなんてものが私に重くのしかかっている。憂鬱な気分を加速させてくれる。
「仁美、大丈夫?」
私の暗い雰囲気を察したのか、フミが明るく声を掛けてくれた。
「大丈夫、と言いたいけど……」
「そうだよね……」
私達はそれきり黙ってしまった。私の鬱々とした空気がフミにも移ってしまったらしい。
家の最寄駅まで一言も喋らず歩いた。学校の最寄駅までの電車の中でも結局喋ることはなかった。出会って数か月の友達というわけではないから、気まずさなんてものはない。ただ私の所為で少しフミの気分が落ち込んでしまったのは悪いと思っている。
電車が学校最寄駅に到着し、同じ制服を着た生徒がぞろぞろと降りていき、私とフミも流れに乗って降りた。
周りの楽しそうな話声が耳に着く。普段フミといる時は何も思わないのに、今日だけは気になって仕方がない。それは私だけ憂鬱だからで、悩みのなさそうな周りの人が羨ましいからにほかならない。
ちらりとフミを見ると難しそうな顔で何やら考え込んでいる。
ホームから改札までの階段を降りる時にフミに話しかけた。
「フミ、何考え……」
言い終わらないうちに、背中に力を感じた。
私は前に踏み出し、踏みとどまろうとしたが、足は空を切る。ここ、階段……。
私の体が前のめりになり、視界が揺らぐ。
落ちる。私は恐怖で動けなくなり、目をつぶった。
階段を転げ落ち、体中から血を流し、腕や足が変な方を向いている姿が一瞬で思い浮かんだ。どれくらい痛いだろうか。
すぐに腕を引っ張られる感覚があった。階段を転がり落ちることなく、間一髪後ろに倒れ込んでいた。
私の背中には安心できる柔らかさがあった。
私を抱え込むようにしてフミが引き戻してくれたとしばらくしてから気が付いた。
下手したら死んでいた瞬間から帰還したことと、フミに抱きかかえられている非日常が私の鼓動を速くする。恐怖はやがて安心に少しずつ変わっていく。今はフミと密着しているこの状態にドキドキする。
「よかった無事で」
フミが私の耳元で囁いた。少しくすぐったい。
「ありがとう、フミ」
私は首だけ回してフミを見た。今にも泣きそうな顔をしている。
フミがさらに抱き着く力を込める。
私は有頂天になりかけたところでフミの後ろに人影がいるのに気が付いた。何となく恥ずかしい場面を見られてしまった。
顔を上げると私がいた。
私は短くひゅっと息を飲んだ。
フミがすぐに私の様子に気が付いたのか、私を抱きしめたまま後ろを振り返った。フミの驚きが、フミの腕を通して伝わってくる。
そういえば、周りの様子がおかしい。さっきまで同じ学校の生徒でごった返して煩かったのに、今は誰もおらず静まり返っている。電車の案内も、いつも鳴っている目が不自由な方のための音も聞こえない。今は私とフミと私のドッペルゲンガーしかいない。
あり得ないことが起こっている。状況が理解出来ても、納得は出来ない。
私は恐怖のあまり目を固くつぶり、フミの両腕を抱え込むように丸くなった。私の背中にフミの激しい鼓動が伝わる。
どれくらいたっただろうか。この世界に音が戻っていることに気が付いた。電車の発着を知らせるアナウンス、通行人の足音や話し声、普段の様子が戻っている。
まだ私のドッペルゲンガーがいたらどうしよう……。
私は目を開け、首だけを回して恐怖で勇気がしぼまないよう、一気に後ろを振り向いた。
私はいない。
普段の駅と、目を閉じ少し震えているフミがいるだけ。
「フミ」
私は小さく声を掛けた。
フミの体が一瞬驚きで跳ね、それからフミがゆっくりと目を開けた。その目には涙が溜まっていた。
「フミ、もう大丈夫。よく分からないけどとりあえずは」
私を抱き締める力が強くなり、フミはよかった、よかったと何度も繰り返した。すぐにフミが泣き出してしまったので私は慌ててフミの頭を撫でた。
「どうしてフミが泣くのさ」
フミがしゃくりをあげ、何か話すが上手く聞き取れない。
「落ち着いて。落ち着いてからもう一回教えて」
私はフミが泣き止むまで頭を撫で続けた。
フミがこんな風に泣くのを初めて見た。見たことのないフミの様子に、さっきまでの恐怖はどこへやら、少し嬉しくなってしまった。私しか知らないフミがいる。
フミの目から溢れる涙を指で優しく拭う。
どうしよう、キスしたい。私の中でこの場ににつかわしくない欲求が沸き上がってきた。フミに気づかれないよう深呼吸する。私も感情が滅茶苦茶になっている、少し落ち着かないと。
フミが落ち着いたのか、涙が止まっていた。
「ごめん、情けないとこ見せちゃった」
「そんなことないよ」
フミが一度深呼吸してから話し始めた。
「仁美のことは私が守るって決めてたの。ドッペルゲンガーなんかに殺させない。どうやったら仁美を守れるか分からないけど、それでも私の大切な人を失わせはしないって決めてた」
フミから大切な人なんて言葉が出てくるとは思ってなかったから、驚いて何も言えなかった。
「ドッペルゲンガーが目の前に現れて仁美に何かしようものなら、どんなことをしてでもやっつけてやるって思ってた。でも……」
そこで一度フミが切った。
「でも、怖くて何も出来なかった。怖くて仁美にしがみついて、震えてただけ」
またフミが泣きそうな顔になったので、私は慌ててフミを抱き締めた。
「そんなことないよ。フミがいたから私は階段から落ちずに助かったんだよ。フミは私を守ってくれたよ」
私の言葉にフミが今度こそ泣き出した。
「次は……。次こそは……、本当に守るから。次にドッペルゲンガーが現れたら、今度こそやっつけるから」
私はフミが泣き止むまでフミを抱き締め、頭を撫で続けた。
フミにそんな責任を感じて欲しくない。フミが私を守ると言ってくれるのは嬉しい。それでもフミが、フミだけが一人で気負うのは嫌だ。これは私の問題だから。そう、私の生死に関わることだ。だから私自身がどうにかしないといけない。フミの助けは必要だろうが、それでも最後何とかするのは私しかいない。
私はこのまま、ドッペルゲンガーなんていう訳の分からない存在によって死ぬわけにはいかない。それで私の大切なフミを悲しませることなどあってはならない。
今のままじゃ、駄目だ。強くならないといけない。フミのように強くはなれなくていい。それでもこのドッペルゲンガーの問題が解決するまでは私が強くなる必要がある。臆病でフミの陰に隠れたままじゃいけない。
フミとこれからも一緒にいるためにも。
登校途中だったことを思い出したが、既に遅刻確定の時間だったため、私達はゆっくり学校に向かうことにした。
道中ドッペルゲンガーの話題が尽きなかった。どうして突然現れるのか。階段から突き落としたのはやはりドッペルゲンガーなのか。殺意という感情があるのかは分からないが、殺すつもりだったならどうして恐怖で縮こまっている私達を突き落とさなかったのか。なぜ突然消えたのか。
私とフミは色々疑問をぶつけあったが、答えが出るはずがない。こんな不思議で、理不尽な現象に理由は無いが、喋ることで恐怖を少しでも紛らわせたかった。
優等生のフミと一緒だったからか、大したお咎めもなくその日は無事に終わった。
それから一週間は平穏な日々が続いた。退屈な授業を潜り抜け、放課後はほとんど毎日フミとデート。ただ、どうしてもドッペルゲンガーのことが頭を離れず、デート中もどこかぎこちなくなる。
それでも私は全力で楽しんだ。この先私がどうなってしまうか分からないから。だからと言うわけではないが、積極的にフミの手を握ったり、時には腕を絡ませたりするようになった。
フミは拒否するどころか、喜んで受け入れてくれているように見える。私はそれが嬉しくどんどん積極的になっていった。一度だけくっつきすぎて歩きにくいと言われたが、それでもフミは離れようとはしない。
私は完全に舞い上がっていた。
フミと放課後デートし、自宅の最寄駅から帰る途中のことだった。喉元過ぎれば何とか、ではないが私はドッペルゲンガーの恐怖が少しずつ薄れ始めていた。いつ現れるかも分からないドッペルゲンガーなんぞより、隣にいるフミが、フミと手を繋いでいるこの時間の方が大事なのだ。
突然周りの人が一斉に悲鳴を上げた。
私は急なことに事態が飲み込めず、右往左往するだけだった。全員が上を見上げている――? と思ったところで、フミが私の顔をフミの胸に引き寄せた。
「フ、フミ……」
私の声はフミの制服に吸収され私の耳に微かに聞こえる程度にしかならなかった。フミの鼓動が聞こえる。そして、柔らかい。
そんな呑気な事を考えている間にフミの掌が私の両耳を塞ぎ、くぐもった音しか聞こえなくなった。
それとほぼ同時に、私の後ろで何かが激しく地面に叩きつけられる音が響いた。ぐちゃり、と不快な音と同時に何かが砕ける音が私の耳にわずかに届く。
一瞬の間があって、甲高い悲鳴がはっきりと聞こえた。
何が起こったのか、私は無理矢理振り向こうとしたが、フミが素早くそれを制す。
「見ちゃ駄目。仁美は見ないで」
フミの両手と声が震えている。
私の後ろで何が起きたのか、おおよそ察しはつく。人が落ちたのだろう。フミは見てしまったのか。私にショッキングなものを見せないようにするために。
周りの人が救急車や警察に連絡しているのか騒がしい。
「フミは、見ちゃった?」
「目、瞑ってた。けど、音が……」
フミはいつも私のことを第一に考えてくれている。それが嬉しいのに悲しい。フミにばかり辛い思いをさせている。
周りの音が聞こえなくなっている。私は不気味に思い、フミを引き離した。
「フミ、周りが静かじゃない?」
私達は弾かれたようにあたりを見回した。ただ、私の後ろだけは不自然に避けるように。
「あ!」
フミが後ろを振り向いた瞬間、声を上げた。私からだとフミが陰になっていて、何を見たのかが分からない。私は体を傾け、フミが何を見たのか確認しようとした。予測は付いている。
「あ……」
それでも衝撃は襲ってくる。
やはり私がいた。無表情にこちらを見つめている。
「あんた、一体何なの」
フミが怒声を上げながら私のドッペルゲンガーににじり寄っていく。
「あんたの所為で……」
「フミ、待って」
私はフミの手を握り引き留めた。相手はおそらく人間じゃない、得体のしれない何かだ。不用意に近づいてフミに何かあってはいけない。
「仁美、止めないで……」
フミが振り向き抗議の声を上げると同時に、私の後ろでズル、ズル、と何かが引きずられる音がした。フミの顔色が一瞬で真っ青になる。私はフミの反応の異様さに思わず振り向いてしまった。
腕と足があらぬ方向に折れ曲がり、血まみれになったさっきまでは人だったような物体があった。私は吐き気を堪えすぐに視線を逸らした。が、すぐにまたズル、ズル……と引きずるような音が聞こえた。
もしかして、と思い色々な意識をシャットアウトしながら死体に目を向けた。
また、引きずる音がしたのと同時に死体がわずかに動いた。
骨が砕け、関節の可動域を大きく超えた方向に曲がっている両足を懸命に動かし、這いつくばりながらこちらににじり寄ってくる。さっきから聞こえる引きずるような音の正体はこれか。
私もフミも固まり、私に至っては腰が抜け、まともに動くことが出来なくなってしまった。
死体が少しずつ近づいてくる。大量の血がコンクリートに広がり、死体の軌跡に血が付いている。
死体が肘から先が完全に逆を向いてしまっている腕を必死に私達に伸ばしてきた。まるで助けを求めるかのように。
今まで動く死体を呆然と見ていたフミが、後ろにいる私のドッペルゲンガーと向き合った。私はその様子をただ眺めることしか出来なかった。
「あんたが……。あんたの所為で……」
フミが私のドッペルゲンガーを強く睨みつける。フミの全身から怒りが湧きだしているように思えた。
フミが右足を大きく後ろに下げ、蹴りの態勢に入った。
「フミ、落ち着いて!」
私は引き留めようと叫んだ。腰が抜けて動けない。
私のドッペルゲンガーはどうも、私の理想形らしい。すると、フミを守れる人間でありたいという私の理想が反映されているはずで、フミより確実に強い。実際、ナンパしてきた男を一発で沈めたという目撃情報もある。そんな相手に真正面からぶつかるのはまずい。
だがフミは私の言葉を無視し、
「私達の前から消えろ!」
と叫んでから、側頭部目掛けてハイキックを繰り出した。
このままだとフミが返り討ちにあってしまう……。
私の予想に反し、フミの蹴りが綺麗に側頭部に入り、ドッペルゲンガーは宙に浮き、真横に吹き飛ばされた。
私のドッペルゲンガーがそのまま力なく地面に叩きつけられた瞬間、周りの喧騒が戻り、ドッペルゲンガーが消えた。
あまりの変容振りに私達はまたも固まってしまった。ドッペルゲンガーは見る影もなく、文字通り消えた。周りの雰囲気も、人が落ちたとは思えない程落ち着き普段通りだ。私はまさか、と思い振り返るとそこには何もなかった。落ちてきた人も、血溜まりも、当然苦しそうに動く死体も。
何がなんだか分からないまま、帰路に就く。家までもう少しというところでフミが口を開いた。
「仁美、怪我とかしてない?」
「大丈夫」
「よかった」
フミはそう言うと私の手を握り、引き寄せ、私を抱き締めた。
「今度は仁美を守れた。ちゃんと立ち向かえたよ」
私もフミを抱き締めた。
「ありがとう、フミ。フミがいなかったら今頃どうなってたか……」
改めて口にすると恐ろしい。フミがいなかったら、現実にあったことか幻覚だったのか定かではないが、自殺に巻き込まれて死んでいたかもしれない。そうならなかったとしても、一人でドッペルゲンガーに立ち向かえたかも怪しい。
「絶対私が守るからね」
フミの言葉が嬉しい。でも、いつもフミがいてくれるわけじゃない。フミがいない時に私の前にドッペルゲンガーが現れたら、私は戦えるだろうか。そうじゃない。戦わないといけない。そう決めたはずだ。
ドッペルゲンガーを目撃してから三日後、私達が住むマンションの入り口にまたしても現れた。
今日もフミとのデートから帰ると、何の前触れもなく現れた。さっきまでの楽しかった気分が嘘のように引いていく。普段は静かな住宅街で音が少ないが、今は無音で気味が悪い。
「おかえり」
私のドッペルゲンガーが一言私と同じ声で、何の感情も籠っていないような無機質な声を発した。喋るのか、と場違いなことを考えている間にも、フミが無言でドッペルゲンガーに近付いていく。
フミはドッペルゲンガーの脇腹に無言で蹴りを入れた。革靴のつま先がめり込み、苦悶の表情を浮かべ、体をくの字に折り曲げ倒れた。
今回もドッペルゲンガーが地面に倒れると同時に消え、辺りの雰囲気も普段通りに戻った気がする。
「ドッペルゲンガーなんて、もう怖くない」
フミが誇らしげな顔で親指を立てる。
本当にフミは頼りになる。フミがいてくれれば、私は大丈夫だ。でも……。
「ねえ、フミ。相談したいことがあるから私の家に来てくれない?」
「いいよ」
フミは荷物を置いて、制服から着替えたいとのことで一度お互いの家に帰ることにした。私は自分の部屋に荷物を置き、部屋着に着替えた。
台所で母親が夕飯の準備をしていて、いい匂いが漂い、テレビからはやや大きな音量でニュースが流れている。
しばらくしてから家のインターホンが鳴った。フミだ。私は部屋を出て玄関まで行き、鍵を開けようとしたところで、違和感を覚えた。
さっきまで聞こえていたテレビの音がしない。家全体が無音に包まれている。これは……。
ピンポーン、ともう一度インターホンが軽い音を響かせる。無音だからか、いやに大きく聞こえる。
私は音を立てないように後退った。だがそれを見透かしているかのように、玄関から声がした。
「私、開けて」
一瞬フミかと思ったが、違う。私の声だ。
私は無我夢中で部屋に逃げ戻った。音を立てず私がいることを悟られないように、とか考えている余裕はない。部屋の扉を閉め、扉に全体重をかけるように寄りかかる。扉は内開きだから、しばらくは侵入を拒むことが出来る。
ガチャリ、と家の鍵が開く音がした。ドッペルゲンガーだからと言って、家の鍵まで持っているなんて都合のいいことがあるのか。
こちらに向かって歩く足音が聞こえる。私は呼吸を止め、さらに扉に体重と力を込めた。
気付かないで、来ないで……。私の祈り空しく、足音が部屋の扉の前で止まった。
ドアノブが下がり、扉に力が加わるのが背中に伝わってくる。しばらく扉を無理に開こうとする気配があったが、やがて消えた。
諦めたのだろうか、とほんのわずかに安心した瞬間、ガチャガチャガチャとドアノブが激しく上げ下げされた。ちょうど私の真上からその音が降ってくる。
我慢の限界だ。これ以上は私がおかしくなる……。私は耳を塞ぎ、祈った。フミ、助けて! フミ!
どれくらい経ったかは分からないが、ドアノブを激しく動かす音も、扉を無理矢理開ける気配も消えていた。それでも気は抜けなかった。ほんのわずかな油断に付け込まれたら、と思うと全身が強張ってしまう。
また扉を開けようとする力が背中に伝わってきた。
ドッペルゲンガーはまだ諦めていないんだ……。
「あれ? 仁美?」
聞き覚えのある声がした。私は恐る恐る耳を塞いでいた手をどかした。気が付けばさっきまで流れていたテレビの音や母親が台所で料理している音が戻っている。
私はゆっくり立ち上がり、部屋の扉を開けた。
フミがいた。私の大好きな幼馴染が、心配そうに私を見ている。
無意識のうちにフミに抱き着き、静かに泣いていた。恐怖から解放され、フミの顔を見たら、押しとどめていたものが一気に溢れてきてしまった。
私が泣き止むまでフミは黙って私を受け入れてくれた。
「仁美が無事でよかった」
私は落ち着いてから、フミが来るまでに何があったかを説明した。
「ほんの少し私がいない間にもドッペルゲンガーは現れるんだね。本当に四六時中一緒じゃないと仁美が危ないね」
フミと常に一緒にいられるのは素敵なことだが、私の命を危機に晒しながら、というのは流石に割に合わない。
「流石にそんなこと出来ないからさ……」
私は一度切って深呼吸した。今からとんでもないことを言おうとしているのだ。
「ドッペルゲンガーを倒そう。いや、殺そう」
あまりに物騒な言葉にフミが少し固まった。私はフミが飲み込めるまで待つことにした。
「こ、殺すって……。そ、そんなこと……」
「やるしかないよ。そうじゃないと、私達の前に何度でも現れる。ドッペルゲンガーに怯えながら過ごすなんて、もう嫌だ」
私はフミの目を見つめて切々と訴えた。やがてフミが小さく頷く。
「そうだよね。痛い目に合わせるだけじゃ効果なさそうだし、やるしかないか……。でも、どうやって……」
フミが何か考えあるの、と目で訴えてきてた。私だって考え無しに提案しているわけではない。
「考えはある。でも一人だと出来ないから、フミに協力して欲しい。それで今日呼んだの」
「分かった。私が出来る事なら何でもする」
フミが力強く頷いてくれた。これだけで百人力だ。
「まず確認なんだけど、フミがドッペルゲンガーを蹴った時、どうだった? 手応えあった?」
「あった。頭を蹴った時も、脇腹を蹴った時も。人を蹴った時と同じ感触だった」
それを聞いて少し安心した。
「つまり、物理攻撃は効くってことだよね」
フミがそうだね、と小さく呟いて頷いた。フミは今一つ私が何を言おうとしているのか理解し切れていなさそうだった。
「だとしたら、勝機はある。ドッペルゲンガーはフミに攻撃出来ない。だからフミがまず一方的に攻撃して……」
「ちょっと待って」
フミが掌を私に向け、遮った。
「ドッペルゲンガーが私を攻撃出来ないって、どういうこと」
「出来るはずがないんだよ、当然。だって私のドッペルゲンガーだから」
フミはやはり首を傾げ、私に続きを促した。
「ドッペルゲンガーは、言わば私のコピーみたいなものでしょ。色んな人の目撃情報によると明らかに私の上位互換て感じだけど」
私がフミの反応を伺うと、納得したように頷いたので、私は続けた。
「今の私と多少の差異があるけど、絶対フミは攻撃出来ない。なぜなら私がそんなこと絶対するはずがないから」
ドッペルゲンガーは私の理想形。それに関しては前から予想していた。つまり、フミを傷つける事だけはあり得ない。その証拠に……。
「誰かの目撃情報によると、ドッペルゲンガーはナンパしてきた男を一発で倒したらしいよね。覚えてる? でも、フミがドッペルゲンガーを蹴った時は、無抵抗だった」
フミが一瞬納得したような表情を浮かべたが、すぐに不安な表情に戻ってしまった。
「確かに、根拠は分かるけど……。ドッペルゲンガーが無抵抗だったのは、私達を油断させるためだった、とか考えられない?」
ドッペルゲンガーにどれだけの知能があるのか分からないが、それはないと断言出来る。フミを傷つけるはずがない、なぜならフミが好きなのだから。でもそれを今は言えない。
「フミは安全。確信がある。私を信じて」
フミは渋々といった感じで、一応は納得したようだった。
「分かった。でも、問題はそれだけじゃないよ。私がドッペルゲンガーに攻撃すると、消えちゃうでしょ。どうやって、その、殺す……の?」
私ははっとして息を飲んだ。フミがドッペルゲンガーを攻撃して、隙を見て刃物か何かで殺そうと思っていたが、消えてしまっては何も出来なくなってしまう。
「それに、いつ現れるかも分からない相手を、いつでも殺せる準備なんて出来るの?」
またしても痛いとこをつかれた。私の杜撰な計画がフミの頭脳によって粗が見つかっていく。私は何も言えずに黙ってしまった。
「仁美が言うように、物理攻撃は効くから、何かしら手は打てるはず。もう少し煮詰めようか」
その前にトイレ借りるね、とフミが部屋を出て行った。
どうしたらいいだろうか。フミからの攻撃は無抵抗で受けるはず。それならフミにドッペルゲンガーを……。いやいやいや、と私は頭を振り、嫌な考えを追い払った。フミに人殺しなんてさせたくない。人ではなくドッペルゲンガーとやらだが、それでもフミにそんなことさせたくない。私が決着を付けないといけないのだ。
部屋の扉が開く音に、物思いに耽っていた私は顔を上げた。
私がいた。
あまりにも突然で私は固まってしまった。
私のドッペルゲンガーは無表情にゆっくりとこちらに向かって一歩踏み出す。表情が微かに変わり、口元に小さく笑みを浮かべている。
遠くで、ふふふふふ……と小さく笑い声がする。
ドッペルゲンガーがさらに一歩踏み出し、近づいてこようとする。……ふふふふふ、ふふふふふ……。さっきより少しだけ大きな笑い声が聞こえてくる。さらにはっきりと口元に笑みを浮かべている。
私は慌てて立ち上がり、全身でドッペルゲンガーに突っ込んでいった。反撃が来るとは思っていなかったのか、あっさりと仰向けに倒れた。
無防備な鳩尾を真上から力一杯踏みつけた。何とも言えない柔らかな感触が足元から登ってきて気持ち悪い。
それでも笑い声は途絶えない。……ふふふふふ、ふふふふふ……。
ドッペルゲンガーが苦しそうな表情を浮かべ、お腹を抱えながら丸くなった。やはり物理攻撃は効く。ならば当然、殺すことも出来るはずだ。
今度は顔面を思いっ切り踏みつけた。頭とフローリングの床が勢いよくぶつかり、鈍い音が響く。
鼻が変な方向に曲がり、血を流れている。笑い声は止まらず、それどころかより大きくはっきりと聞こえるようになっていた。
ふふふふふ、ふふふふふ……。
私は倒れいてるドッペルゲンガーを飛び越え、急いで台所に駆け込んだ。やはり無音で、フミも母親も消えている。やるしかない。頼れる人はいない。
私は台所にある一番大きくて殺傷能力が高そうな包丁を取り出した。
物理攻撃が効くのであれば……。
私は今からドッペルゲンガーを殺そうとしている。例え人ならざる物だとしても、嫌な気分になる。今後の人生に暗い陰を落とすことになるかもしれない。
それでもやるしかないのだ。
私は決意し、ドッペルゲンガーの元へ行くべく、踵を返した。
振り返った瞬間、ドッペルゲンガーは私と1m程の距離まで近づいていた。私は悲鳴を抑え、刃先を向けた。音もなく、いつの間にこの距離まで。
見ると鼻が曲がっているがダメージは残っていないのか、怒りもなく無表情にこちらを見つめている。
脳震盪の一つでも起きそうなものだが、そんな様子は伺えない。やはり人間ではない、人間であるはずがない。殺したところで何の問題もないはずだ。
私の全身の震えが、相手に向ける包丁に伝わり、小刻みに震えている。
ドッペルゲンガーが掌を私に向けながら右手をゆっくりとこちらに伸ばしてきた。
私は刃先を常にドッペルゲンガーの手に向け、いつ襲い掛かってきてもいいように構えた。
来るなら来い、武器がある以上こっちの方が有利だ。そんな浅い考えをあざ笑うかのように、右手がゆっくりとこちらに向かってくる。この期に及んでも包丁で刺すことに躊躇いがあり、相手の手と刃先の距離を一定に保つように移動させていく。
このままではいずれ……。意を決し、言葉にならない声を上げながら、掌に包丁を突き刺した。料理で肉を切る時とは違う、何とも形容しがたい嫌な感触が伝わってくる。
包丁が手に突き刺さっているにも関わらず、ドッペルゲンガーは意に介さず無表情のまま、腕を伸ばしてくる。包丁はどんどん深く刺さっていき、出血が増えていき、包丁を赤く染めていく。
遂に手を貫通した。
今まで無表情だったドッペルゲンガーも徐々に、苦しそうな表情を浮かべ始めた。
……ふふ……ふ……ふ……。さっきまで聞こえていた笑い声が苦しそうに途切れ途切れになっている。だがそれでも笑い声は消えない。……ふふふ……ふふ。
物理攻撃は効く。痛みも感じる。血も出る。ならばやはり、勝機はあるのだ。包丁で滅多刺しにすれば……。私の中で次々と色々な考えが浮かんでは消えていく。
ドッペルゲンガーが包丁の刺さっている右腕を振り上げた。油断があったわけではないが、一瞬の隙をつかれた。私の手から包丁がするりと抜けていき、包丁がドッペルゲンガーの元に渡ってしまう。
ドッペルゲンガーは苦しそうに、少しずつ掌に刺さった包丁を抜こうとしている。
まずい、このままだと、一気に形勢逆転してしまう。私は躊躇する間もなく、右肩から相手に突っ込んでいった。私とドッペルゲンガーはもつれあいながら、床に倒れ込んだ。打ち所が悪かったのか、左腕全体が痺れるように痛い。私の汗とドッペルゲンガーの血が顔に張り付き気持ち悪いが、意に介さず、ドッペルゲンガーを床に押し付け馬乗りになった。
そのまま左手で相手の右手首を抑えつけ、右手で勢いよく包丁を抜いた。ドッペルゲンガーの血が勢いよく床に広がっていく。
「あああ……」
ドッペルゲンガーが呻き声を上げた。私は無言で包丁の刃先をドッペルゲンガーの首筋にあてがった。このまま包丁を突き刺し頸動脈を切れば……。
ほんの僅かな躊躇。人ではないが、おおよそ人に近い物を殺すことへの罪悪感が少しだけ沸き上がってくる。でもそれを抑えつけ、首筋に一太刀入れる瞬間、右のこめかみに鈍い痛みが走った。
何が起こったのか分からないまま、景色が傾いていく。
空いていた左手で殴られたのだと気づくのに時間がかかった。同時に相手の右手を抑えていた左腕から力が抜け、その隙を見逃さず、ドッペルゲンガーの右腕がすり抜けていった。すり抜けた右腕が顔の目の前を通り過ぎていった。なんだろう今の動きは、とぼんやり考えているうちに視界が真っ赤に染まった。
血で目つぶし……。
ドッペルゲンガーの動きは止まらない。自由になった両腕で私の頭を挟み込み、床に勢いよく引き倒した。頭を強く打ち、何が起こっているのか分からないまま、いつの間にかドッペルゲンガーが馬乗りになっている。さっきまでと真逆の態勢と血を使った目つぶしで視界が霞み、私の中で徐々に諦めの感情が湧いてくる。
ごめん、フミ……。私、もう……。
ふふふふふ、と余裕を取り戻したようなわざとらしい笑い声が聞こえてきた。何が面白いんだ、私の中で怒りが込み上げてきた瞬間、首を両手でつかまれた。最初は触る程度だったが、どんどん力が強くなっていく。
苦しい……。空気が薄くなっていく。必死に空気を取り込もうと無意識に口を動かすが何も変わらない。腕を解こうと暴れれば暴れる程、酸素を消耗していく。
視界と頭が真っ白になっていく。
ふふふふふ、とわざとらしい笑い声が今度は耳元ではっきりと聞こえた。
……何が面白いんだ。
わざとらしい笑い声がより大きくなって聞こえる。ふふふふふ、ふふふふふ。
お前の所為でフミとの楽しい時間がどれだけ奪われたと思っているんだ。その瞬間フミの顔がはっきりと浮かび、右手に何か掴んでいる感触が上ってきた。
包丁だ。理解すると同時に右腕を思いっ切りスイングし、包丁をドッペルゲンガーの脇腹に突き刺した。
「ああああああ!」
さっきまでの不気味で余裕そうな笑い声は一瞬で消え、ドッペルゲンガーが天を仰ぎ、呻き声を上げた。が、すぐに無表情に戻り、笑顔を浮かべ、私に顔を近づけてくる。
包丁が脇腹に突き刺さったというのに、苦しそうな様子を微塵も感じさせない笑い声は、相変わらず聞こえてくる。……ふふふふふ、ふふふふふ……。
余裕な表情を取り繕っているのか、首にかかる力が徐々に弱まり、酸素が戻ってくる。この機会は逃せない。私は何度も何度も、至る所に包丁を突き刺す。ドッペルゲンガーの生暖かい血を全身に浴びるが、そんなものはお構いなしに突き刺していく。
こんなところで、こんな訳の分からない奴に殺されてたまるか。フミの為にも生き残らないといけない。
笑顔だったドッペルゲンガーが私を睨みつける。同時に首にかかる力が再び強くなる。それに比例し楽しそうな笑い声が大きくなる。
ふふふふふふふふふふふふふふふ。
もう何回も刺してるのに、どこにこんな力が……。また視界が白くなっていく。
私は最後の力と気力を振り絞り、包丁を何度も突き刺す。罪悪感は消えていた。こんなの人間じゃない。それになにより私が死んでは意味がないのだ。
フミ、待ってて。もう少しで終わる。またデートをしよう。私の気持ちをいつか打ち明けるからその時は……。
視界は真っ白になり、力も入らない。それでも包丁でドッペルゲンガーを刺している感覚だけは伝わってくる。
ふいに首にかかる力が弱くなった気がした。
それとも私が死に近づいているのだろうか。
徐々に薄れていく意識の中、フミの顔だけが浮かび、笑い声だけが耳にこびりついていた。ふふふふふふ、ふふふふふ……。
……ふふふふふふふ、ふふふふふふふふふふふ。
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