2人が本棚に入れています
本棚に追加
私からもありがとう
背後に嫌な空気を感じて、裕美は、顔を上げて振り返った。
だが、特におかしなものは視界に入ってこない。普通に、自分の部屋の壁と扉があるだけだ。
「きっと気のせいよね。疲れてるのかな……」
裕美は在宅勤務の形で、建築デザインの仕事をしており、図面とにらめっこしている最中だった。急いで仕上げないといけないデザインであり、少し前に一人息子の裕太が公園へ遊びに行く時も、いつもならば同行するところを、今日は一人で行かせたくらいだ。
「そういえば、あれって何時頃だったかしら?」
仕事に没頭していたので、自分では『少し前』と思っていた時間も、案外かなり前なのかもしれない。でも、裕太が戻ってくるにしては、まだ早すぎるだろう。
そう考えながら、裕美は伸びをして、椅子から立ち上がった。一息入れるには良い機会かもしれない、と思ったのだ。
先ほど感じた、嫌な空気。
あくまでも「なんとなく」程度だが、それがどこから来るのか辿ってみると、どうやらキッチンの方から来ていたらしい。
気分転換がてら、実際にキッチンへ行ってみる。なんだか、人の気配がするようにも感じられた。
「そんなわけないけどなあ」
子供と夫との三人暮らし。旦那の会社はリモートワークではないので、普通に出勤している。最近では、前より帰宅時間は早くなったし、休日出勤も減ったようだが、少なくともまだ帰っていないのは確実だ。
つまり、今この瞬間、家にいるのは裕美一人のはずだった。
とりあえず、キッチンまで来たついでに、冷蔵庫を開ける。作り置きの麦茶で、喉を潤そうと思ったのだが……。
「えっ?」
一言だけ発して、絶句する裕美。
驚愕と恐怖のために、むしろ喉がヒリヒリする感覚に襲われた。
昼の買物の際、夕食のデザートにしようと考えて、駅前の人気店で購入したモンブラン。
彼女だけでなく、息子の裕太も大好きなケーキだ。それを三人分、冷蔵庫に入れておいたのに、いつの間にか消えていたのだ!
嫌な空気。
人の気配。
消えたケーキ。
「もしかして……。泥棒でも入った?」
ようやく言葉を取り戻した裕美は、一つの可能性を口にする。
だが体は硬直したままであり、しばらくの間、冷蔵庫の前で立ち尽くすのだった。
――――――――――――
「いただきまーす!」
きちんと挨拶してから、裕太は幸せそうに、モンブランを食べ始めた。
「お姉さん、ありがとう! 僕、これ大好き!」
目の前に座る女性に対して、無邪気に告げる裕太。
彼にとっては、食べ慣れた味の、美味しいケーキだった。
「おうちでも、いつも同じの食べてるの! ママが用意してくれるの!」
小さな手でフォークを握り締めながら、裕太は笑顔で説明する。
話を聞きながら、青白い顔の女性も、優しそうな微笑みを浮かべた。
「あらあら。それじゃ、買い置きしてくれてるママに、感謝しないとね」
「うん、ママにも言う! ありがとう、って!」
裕太の返事に紛れるようにして、女性は小声で呟いていた。
「私からも『ありがとう』って言いたいわ。こんな良い餌、用意してくれて……」
まだ「知らない人について行ってはいけません」が理解できないほど、幼い裕太。
公園で出会ったばかりの女性の家に、誘われるがままに上がり込んでしまうくらいだ。当然、この家の事情も理解できていなかった。
一人で住んでいた若い女性が、妻帯者と関係を持った末に捨てられて、失意のうちに自殺。今では空き家となっている、ということも。
目の前のいる女性の足が、どこか透けて見える、ということも……。
(「私からもありがとう」完)
最初のコメントを投稿しよう!