高校時代

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高校時代

 私が一生愛すると決めた六車彩音との出会いは高校一年の時だった。  私は過干渉な母親が決めた高校に入学し、流されるまま受験し、無事合格した。どうしても行きたい高校があるわけでもない。仮にあったとしても、自分の意見を曲げない母親がヒステリーを起こすのは目に見えているから、私は言われるがまま高校に入学した。  いつもそうだ。小さい時から、私がやりたいことと母親のやらせたいことが食い違うと母親は癇癪を起こす。酷い時は泣き喚き、何度も叩かれた。何が原因でそんなに風になるのか分からない。私は幼い頃から自分を押し殺して過ごしていた。そして気が付けば自分の意思というものがなくなってしまっていた。  無趣味で無気力で流されるだけの自分は中学と同じように高校でも退屈な三年間を送ると思っていた。彩音と親友になるまでは。 「私、六車彩音。よろしく」  高校生活初日。入学式とホームルームが終わり帰宅となった。私は帰るかなあ、とぼんやりしていたところに前の席の子に話しかけられた。  腰まである長い髪に、はっきり開かれた大きな目。えくぼが可愛らしい。私は可愛さと笑顔の眩しさ、それと急に話しかけられた驚きで少し固まった。  私はしばらくの間黙ってしまったが、彩音は笑顔のまま私を見つめ、少し首をかしげる。 「和木那奈美です。よろしく」  緊張して敬語になってしまった。  新しい環境で友達を作ろうと思ったら、初めに自分の席の前後左右の人に話しかけるのは鉄板だろう。彩音も例に漏れず、後ろの席の私に話しかけたわけだ。  お互い座っているから正確には分からないが、彩音は小柄だった。小動物を思わせる可愛さは、きっとこの人はリア充という人種に分類されるだろうと、私の中で危険信号がともった。  中途半端に仲良くなってしまい、キラキラしているリア充軍団とつるむようになってしまったら最悪だ。私にはそういう人種と上手くやっていく術を持ち合わせていない。キラキラしているリア充軍団も私という異物の扱いに困るだろう。徐々にフェードアウトしていくのも、それはそれで気まずい思いをしそうだ。  私と話しててもつまらないと彩音に思わせようと決めた。実際つまらない人間なのだが。 「那奈美ちゃんね。那奈美て呼んでもいい?」  ぐいぐい来る。こういう人は苦手だ。  とは言え初日から角を立てる気はないので、どうぞ、と小さく呟いた。 「私のことも彩音、て呼んで」  それから彩音は取り留めのない話をした。家が近くで、同じ中学の人が高校に結構いること。このクラスにも何人かいること。陸上競技が、特に個人技が好きなこと。部活は陸上部に入ろうと思っていること。  彩音が笑顔で淀みなく話す。私は適当に相槌を打つ。  最初は苦手な人かと思ったが、話していて心地が良かった。彩音がほとんど喋っているのだが。その日は彩音が喋るだけ喋って、彩音は陸上部に顔を出しに行くとのことで解散となった。  彩音と別れた後、私は少し名残惜しい気がしている自分がいることに驚いた。初対面で心地いい人は初めてかもしれない。いつもは何とか会話をつなげないと、と変に緊張しあたふたする。  彩音が一方的に喋るからか、と私は苦笑いした。  彩音は徐々にクラスの中心となる人間に思う。可愛らしく、明るい。おまけに運動部だ。教室の隅で静かに暮らすのが私。それに関しては何も思わないし、それが自然で楽だと思っている。  彩音からはつまらない人だと思われただろう。明日も彩音は話しかけてくれるだろうが、それも最初だけ。数か月もすればほとんど話すことはなくなるだろう、と私は捻くれたことを考えながら高校生活初日を終えた。  予想通り、次の日も彩音は話しかけてくれた。昨日と同じように笑顔が絶えない。私との会話はつまらなくないのだろうかと不思議に思っているが、彩音は楽しそうだ。  高校入学から数か月して夏休み前。予想に反して、彩音はクラスの中心にはならず、私とほとんど行動をともにする。クラスで私以外に友達がいないようだった。  意外だったが、嬉しかった。  私はすっかり彩音と仲良くなり、彩音がいない日々を考えられなくなっていた。   「見てよこれ」  夏休み明け初日、登校したら玄関で彩音とばったり遭遇した。彩音は私を見るなり左腕を差し出した。彩音は部活に精を出していたのか、こんがり焼けていた。 「日焼け止め塗ってもこれだよ。昨日も日焼けしてまだヒリヒリする」  彩音と廊下を並んで歩きながら、ふと悪戯心が芽生えた。ヒリヒリするという腕を撫でてみたい。右横を歩く彩音の左腕を二度、三度と撫でてみた。  キメ細かくすべすべした。  彩音が息を飲む。 「んっ……。ちょっと」  彩音が腰に手を回し抱き着いてきた。彩音の顔がちょうど右胸に当たる。  ヒリヒリするんだって、と苦笑いしながら腕を引っ込めると思っていたが、予想外の反応に私は少し戸惑ってしまった。 「くすぐったいなあ」  彩音は少し頬を赤くし、息を乱していた。潤んだ瞳で私を見上げている。  彩音の反応と表情にドキリとした。そしてそんな自分にもまた驚いてしまった。  私の中でさらに悪戯心が大きくなった。と同時に彩音の反応を楽しみたかった私はまた腕を撫で始めた。 「駄目だってえ」  彩音はすぐに私から離れ、教室を目指し階段を駆け上がった。  私は歩いて教室に入り、彩音の後ろの席に座った。  彩音はこちらを見ようとせず、わざとらしく教科書を読んでいる。普段そんなことしないのに。  私は後ろから、今度は二の腕のあたりを撫でてみた。半袖の制服から覗く腕は細長く綺麗だ。日焼けで黒くなっているが、健康的な焼け方だと思う。インドアで肌が白い私は真っ赤になる。  彩音は少し喘いで、腕を隠し背中を丸めてしまった。 「ごめん、やりすぎた」  彩音から反応はない。もしかして、怒らせた? 私は少し不安になり始めた。 「彩音さーん。ごめんなさい。もうしませんから」  彩音がようやくこちらを振り向いてくれた。 「いじわる」  彩音のたった一言が可愛くて、また腕を撫でたくなってしまった。強い意志で欲望を抑えつけた。 「ほんと、ごめん。もうしない」  彩音が少し俯いて顔を赤くした。 「たまにならいいよ」  何だ今の反応は。私は呆気にとられ、しばらく口が開けっ放しになっていた。予鈴が鳴り辛うじて我に返ることが出来た。  さらに数か月が経ち、年末が近づく頃にはさらに仲良くなっていた。私は相変わらず流されるように学校生活を送り、彩音以外に友達がいないままだった。彩音もまた私以外に親しい友達はいないようだった。  彩音の距離が近い。心理的にも物理的にも。一緒に歩いている時は、腕と腕がよくこすれ合う。ぴったりくっつくわけでもないので、彩音が無意識に私の近くに寄ってくるのだろう。私自身嫌ではないからわざわざ指摘したことはない。  彩音がどう思っているか分からないが、心地いい距離感だった。彩音から香る香水や制汗剤の匂いもまた好きだ。  この頃私を悩ませることがあった。文理選択だ。母親は相変わらず過干渉で、このことに関して口を挟んできた。お前は昔から理数系がダメだ、文系にしろ。反論するとヒステリーを起こすのは火を見るよりも明らかだったので、私は素直に従った。実際やりたいことも目標もないから、まあいいかと適当に決めた。  問題は彩音がどちらを選ぶかだった。二年生からは文系と理系でクラスが分かれる。もし彩音が理系に進んだら今みたいに一緒にいる時間はなくなってしまうだろう。かと言って私の我儘で文系にしようとは言えない。  下校する時、偶然部活終わりの彩音と帰ることになった。 「文理決めた?」  彩音が少し不安そうに尋ねてきた。 「文系にした」  その瞬間、彩音が満面の笑みを浮かべ、正面から抱き着いてきた。いつも楽しそうだが、格別な笑顔だった。 「やったあ! 来年も同じクラスだね」  田舎の高校とは言え、文系クラスは例年四クラス程ある。二人とも文系だからと言って同じクラスになれるわけではない。そのことを言うと少し頬を膨らませた。相変わらず抱き着いたままだ。あざとい。 「つまんないこと言わないでよ」 「いや、しょうがないじゃん」 「大丈夫だよ。クラス編成には交流関係も考慮されるみたいだしさ」  彩音は一度切って、さらに強く抱き着いてきた。 「私、那奈美以外に友達いないもん。同じクラスだよ」  何だこの可愛い娘は。私は彩音が愛おしくなり、彩音の長い髪を撫でた。部活終わりだからか根元のあたりが少し湿っていた。冬なのに汗を掻くほど頑張っている。風邪をひかないように、と願いながら髪の根元から毛先にかけて手櫛を通す。  彩音の顔はちょうど私の胸のあたりにあり、手が腰に回されている。彩音はくすぐったいのだろうか、少しずつ息が乱れてきて手が震えているのが伝わってきた。  前もこんなことがあったな、とぼんやり思いながら手の動きは止めない。しばらく彩音で遊んでみようと意地の悪い考えが沸き上がってきた。  そのまま五分くらい撫で続けた。ほとんどの生徒が下校したのか人が全然いなかったが、一人の女子生徒がこちらをまじまじと見つめながら通り過ぎた。  結構恥ずかしいことしてないか、と私はふと我に返り、撫でるのを止めた。彩音は尚も抱き着いたままだ。 「彩音、帰ろうか」  ようやく私から離れた彩音の顔は真っ赤になっていた。 「き、気持ちよくてウトウトしてた」 「くすぐったかったのを我慢してたんじゃないの」  彩音は何も言わず背を向けてしまった。またやり過ぎただろうか。彩音の反応が楽しくついつい悪ノリしてしまう。 「那奈美はこんな時間まで何してたの」  彩音が振り返りながら無理矢理話題を変えてきた。すっかり落ち着きを取り戻し、顔の赤みも消え、呼吸の乱れも収まっていた。  今日のところは、これ以上いじわるするのは止めよう。 「図書室で本読んでた。いつも時間ギリギリまで読んでるよ」 「嘘。知らなかった」  彩音が目を丸くした。  私は家に居る時間を極力減らすべく、放課後は彩音と別れた後は必ず図書館で時間を潰すのが常だった。 「じゃあ私もたまには行こうかな」 「え、何で。て言うか部活は」 「その辺は緩いから。サボっても何も言われないよ」  彩音は少し悪い顔を浮かべながら言った。  翌日の放課後、彩音は本当に部活をサボり、図書室についてきた。向かい合って座ればいいものを、彩音はわざわざ右隣に座ってきた。近い。  彩音の目の前には真っ白な表紙にタイトルだけが書かれた小説が置かれている。表紙に惹かれたわけでも、作者が好きなわけでもないという。不思議なチョイスだ。  彩音は何もしていないのに楽しそうに笑っている。  私は彩音のことを意識しないようにしながら、本の世界に没頭するようにした。  彩音の首がすぐに前後にカクカク動き出した。読書に興味もないのに、部活をサボってまで何してるんだか、私は呆れながら彩音を見ていた。 「駄目だ、眠い」  彩音がそう言うと、私の肩に頭を乗せ寝息を立て始めた。  なぜ。なぜ。なぜ。私は慌てた。寝るにしても、机に突っ伏すのが普通じゃないだろうか。こんな態勢じゃ寝れないと思うのだが。本当に寝ているのだろうか。  私は彩音を盗み見た。  彩音は規則的な寝息を立てている。一見すると寝ている。器用だ、と感心してしまう。  シャンプーだろうか、いつもよりさらに近い距離の彩音からはいい匂いがする。鼻がくすぐったい。一度彩音の匂いを意識してしまうと、自分が今までどうやって呼吸していたか忘れてしまった。いつまでも彩音の匂いに溺れるわけにはいかない。親友の匂いを嗅ぐ変態になってしまう。だが意識すればするほど彩音の匂いが私の体内を満たす。  その日は下校時間まで私はほとんど何も出来なかった。  二年に進級して、彩音と同じクラスになった。彩音は何度も私に抱き着いて喜びを爆発させていた。私は平静を装いながら彩音を落ち着かせた。  彩音は週一回のペースで部活をサボり、私と一緒に図書室で本を読むようになっていた。ほとんど寝ているが。そして毎回私の肩に頭を預けて寝る。その度に私は彩音の匂いにドキドキさせられた。  代り映えは無いが、彩音と楽しい日々を過ごし、あっという間に三年生になっていた。  必然的に進路の話が出てくる。ここでも母親の過干渉は遺憾なく発揮され私は東京の大学を目指すようになっていた。  三年生になって直ぐの放課後、彩音と進路の話になった。彩音は私の机に両腕を投げ出し、顎を机の上にのせ、リラックスしている。  彩音は横浜の大学を目指しているらしい。 「何で東京の大学なの」 「なんとなくかな」  流石に親に言われるがまま志望校を決めたとは言えない。私は適当に濁した。 「彩音は何で、横浜なの。目標というかやりたいこととかあるの」 「特にやりたいこととかはないなあ。叔母が横浜に住んでてね、そこで下宿させて貰えって。ただそれだけ」  彩音が寂しそうな表情を浮かべた。三年生になってから彩音のこういう表情が増えていることに気が付いていた。 「そのうち疎遠になっちゃうのかなあ」 「大丈夫だよ。案外東京と横浜は近いみたいだし。会おうと思えば会えるよ」  彩音の顔が華やいだ。 「そうだよね。そうだよね。毎日は無理でも会えるもんね」  彩音はそう言うと、机越しに私に抱き着いてきた。 「那奈美、好き!」 「はいはい」  彩音が私に抱き着く頻度も増えてきた。その度に私は彩音の頭を撫でてあげる。 「ずっと」  彩音が私の耳元で囁く。息がくすぐったい。 「親友でいてね」  私が何か言う前に彩音は荷物を持って部活に向かってしまった。  三年にもなれば、卒業が頭にちらつくのだろう。卒業してしまったら、今みたいに毎日じゃれ合ったりできなくなる。彩音は寂しく思っているはずだ。彩音との日々を大切にしたい。  私も彩音と離れ離れになるのは寂しい。流されるまま生きてきて、ここまで仲良くなった人はいない。私が何か努力しているわけではないが、それでも彩音は特別だ。  あっという間に時間が過ぎていく。気が付けば卒業式を迎えていた。彩音は横浜、私は東京の大学に行くことになった。  卒業式も終わり、教室で誰もいなくなるまで彩音と喋っていた。彩音とならいつまでも喋っていられるから不思議だ。 「那奈美はもう東京に行っちゃうの?」 「うん。明日から東京で生活する」  受験の日に両親が借りるアパートを抑えていた。家具や生活必需品が既に運び込まれている。 「もういなくなっちゃうのかあ」  彩音が落ち込んだような表情を見せたかと思うとすぐに笑顔になった。 「卒業旅行に行こうよ」  思わぬ提案に胸が躍った。彩音が私の表情を伺ってさらに笑顔になる。 「決まりだね」 「どこか行きたいとこあるの?」 「ネズミの王国行こうよ。東京とか言いつつ千葉にある」 「いいね」  話はあっさりまとまった。彩音が今週末横浜に引っ越すとのことで、来週の水曜に日程が決まった。東京観光もしたいとのことで一泊することになった。宿は彩音が予約するという。  彩音との卒業旅行が楽しみで、日々があっという間に過ぎた。東京に引っ越しの日、両親が付いてきた。二人から一人暮らしする上で色々なことを言われたが、耳から耳へ抜けていく。初めて味わう自由に浮かれていた。気が付けば水曜日になっていた。  ネズミの王国の最寄り駅で待ち合わせすることになっていた。平日だというのに人が多い。私達と同じ考えなのか、若いグループが目立つ。  皆垢抜けて可愛いように見える。私は自分の出で立ちを改めて見る。ジーンズにコートと至ってシンプルで無難だ。周りに溶け込めていないような気がする。  顔を上げると彩音がこちらに向かって大きく腕を振っているのが目に入った。私も振り返す。  彩音は可愛い。田舎から出てきたとは思えないくらい自然と溶け込んでいる。いや、それより……。 「何で制服なの」  私は開口一番聞いた。  彩音が目を丸くした。 「逆に何で制服じゃないの?」 「私がおかしいの?」 「鉄板でしょ。テーマパークに制服」 「このためにわざわざ制服持ってきたの? もう着ないのに」  彩音が大げさに溜息をついて肩を落とした。 「手抜かりだったか。せっかく制服デートできると思ったのに」  彩音がすぐに気を取り直したのか、私の手を握った。柔らかくて温かい。 「ま、いいや。行こ」  彩音は私の反応を待たず走り出した。私は引っ張られるまま走り出す。  園内に入ってからの彩音の距離が近い。近いというのは違う。密着している。彩音はずっと私の左腕に右腕を絡ませている。若干歩きにくい。お互いに足を蹴るし、太ももがよく触れ合う。 「彩音、歩きにくくない?」 「全然」  彩音が不思議そうな顔をする。  アトラクションに乗る時とご飯を食べる時以外は彩音はずっと私と腕を組んでいた。歩きにくいが、彩音の満足気な顔を見ると、まあ今日くらいは彩音の好きにさせるか、という気分になる。いや、普段から彩音には自由にさせているが。私は彩音に甘いかもしれない。極めつけは、彩音がスマホで自撮りする時、頬ずりをし、唇が触れ合うかもしれない、という距離まで近づくが、自由にさせた。私も少しテンションが高かったと後で思う。  彩音といると時間の流れがおかしい。気が付けば閉園間際になっていた。大げさにはしゃぐ彩音、アトラクションで大げさに驚く彩音、美味しそうにご飯を食べる彩音。彩音のことばかりが目に焼き付いている。 「楽しかったね」  私は帰りの電車の中で少し冷静さを取り戻しながら言った。彩音と並んで座って電車に揺られている。相変わらず距離が近く、肩と肩が常に触れ合う。疲れからか、油断すると寝そうになる。 「お楽しみはまだまだこれからだよ、那奈美」  彩音は意味ありげに笑った。 「なんといってもこれからお泊りだからね」  ホテルは数駅離れた場所に取ったと言っていた。受験で同じ系列のホテルを使って気に入ったらしい。  そういえば、彩音と遊ぶのは初めてではないが、泊りがけというのは初めてだ。 「私の家でもよかったんじゃない、ホテル予約しなくても。お金も勿体ないし」  彩音が少し困った表情を浮かべた。 「えっと、その、それはレベルが高いなって」  何だレベルって。 「そろそろ降りるよ」  彩音は話を変えるためか、駅に着いてもいないのに立ち上がった。  電車を降り、駅から徒歩一分という好立地にあるホテルにチェックインした。全国に店舗があるビジネスホテルだった。こぢんまりとしているが、二人で寝るだけなら十分な広さ。当然だがベッドは二つ。当然だが。お風呂もトイレも綺麗で快適に過ごせそう。  私達は遊び疲れ、お風呂に入ってすぐ寝ることにした。 「那奈美、一緒に入る?」  彩音がおどけて言う。 「二人じゃ狭いでしょ。さっさと入ってきなよ」  彩音がニヤッと笑った。 「広かったら一緒に入るの?」  頬が真っ赤になるのが自分でも分かった。私は何を言っているんだ。あらぬ勘違いをされかねない。私はベッドの上で足を抱え、足の間に顔を隠した。 「いいから入ってきなって。眠いから早くして」  彩音が楽しそうにはいはい、と言って風呂場に消えていった。  彩音はものの数分で出てきた。備え付けのガウンを着ていて、髪が濡れたままだ。何だか色っぽい。私もささっとシャワーを浴び、髪を乾かし、寝るだけとなった。 「おやすみ」  彩音はそう言うと電気を消し、部屋が真っ暗になった。 「おやすみ」  私は限界を迎えていた。普段は夜中の二時くらいまでは平気だが、この日は遊び疲れ、意識は朦朧とし瞼が重い。疲労と静寂と暗闇で眠りに落ちる寸前、隣のベッドからもぞもぞと彩音が動く音がした。彩音がベッドから出た気配がしたかと思うと、私を覆っている布団が少し持ち上がった。  その隙間から彩音がベッドに入って来た。 「彩音?」  一瞬で目が覚めてしまった。一日中くっついていたがこれは予想外だ。  彩音は私を抱き枕とでも思っているのか、両足で私の左足を挟み込む。彩音の両腕は私の胸の下あたりでぐるりと体に回されている。さらに左腕に、薄いガウン越しに彩音の柔らかい胸があたっている。 「彩音」  私はもう一度呼びかけたが、返事はない。  すぐに寝息が聞こえ始めた。  私は彩音を起こさないように微動だにせず、暗闇を睨みつけていた。ホテルの同じシャンプーとボディソープを使っているはずなのに、彩音からはいい匂いがする。なんだかずるい。一人用の小さなベッドに、親友と二人で寝ている。この状況はなんだ。眠れる気がしない。  心臓の鼓動が速い。彩音が起きないだろうか。  彩音がもぞもぞと何度も態勢を変える。その度に左腕に押し付けられる彩音の柔らかい胸にドキドキする。彩音が再び態勢を変えた時、何か突起のようなものがあたった。  これはもしかして……。いや、もしかしなくても。  ノーブラで寝る人なのね。それはいいのだが、人に抱き着いて寝るのにそれはどうなんだ。  このままではよくないと思い、ゆっくりと彩音と距離を取ろうとした。しかし、彩音は離れない。それどころかこちらの動きについてくる。  左腕の自由を取り戻そうと、そっと腕を引き抜こうとした時、彩音の乳首と腕が擦れた。彩音の呼吸がわずかに乱れた気がする。  何だ今の反応は。彩音は絶対起きてる。私の心臓がさらに早鐘を打つ。落ち着け、落ち着け。私は自分に言い聞かせた。さっきまでの眠気は消し飛んでいた。それどころか頭が冴えわたっていく。色々な可能性を考慮した結果、このまま寝ることにした。これが最善のはずだ。彩音はあくまで寝たふりを貫き通すつもりだろう。ならば私は無理をせずこのまま何もせず、再び眠気が襲ってくるのを待てばいい。変なことにはならないはずだ。これ以上は。やがて心臓も落ち着き、眠りについた。  目が覚めた。隣を見ると彩音は既に起きていて、上体を起こしぼんやりしていた。 「おはよう」  私が声を掛けると、体ごとこちらに向けてきた。 「おはよう」  胸元が大きく開いていて、下手したらはだけそうになっていた。私の視線に気が付いたのか、彩音がさっとガウンを直し、胸を隠した。 「えっち」  一瞬頭がクラっとしたが、聞かなかったことにしてそそくさと着替え始めた。不味い。昨日の夜の所為で彩音のたった一言が私を狂わせそうになる。  予定通り二日目は東京観光をした。予定を決めたわけではないので、適当に思いつくところへ行った。スカイツリーの高さに驚き、東京駅の駅舎をバックに写真を撮る。レインボーブリッジを歩いて渡れると知り、歩いた。  今日も彩音は近い。ほとんど腕を組んで行動している。厚めのコートを着ているから感触は分からないはずなのに、彩音の胸を意識してしまう。その度に邪念を追い払うのに苦労した。今日の那奈美は変だね、と笑われる始末だ。  この日もあっという間だった。私達は駅のホームで別れを惜しんでいた。既に何本か電車を見送っている。 「そんな寂しそうな顔しないでよ」  終わりが近づくにつれ、彩音の口数が減っていることに気が付いていた。 「いつでも会える距離じゃん」  私は努めて明るく振る舞った。 「そうだけどさ」  彩音が今にも泣きそうな顔をしながら、私を力強く抱きしめた。 「那奈美、また一緒に遊んでくれる?」 「うん」 「夏休みとかは、海や山に行こうね。温泉とかも行こ」 「うん」  彩音がゆっくりと私から離れた。電車がホームに入って来た。 「ずっと親友だよ」 「当たり前じゃん」  私は笑いながら応えた。  彩音がじゃあね、と言って電車に乗り込んだ。私はしばらくその場で立ち尽くしていた。   いつでも会える距離だ。メールだってある。電話をすれば声も聞ける。でもこれからは今までと違って毎日一緒にいるわけではない。今まで流されるように生きてきた。こんなに寂しくなるなんて思ってもいなかった。  心にぽっかり穴が開いた気分だった。
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