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ぼそりが現れたのは、泣きながら起きた朝のことだ。気づいたときには朝食の席に着いており、平然とわたしの朝ごはんを食らっていた。
それは、ひとがたをした何かだった。赤ちゃんくらいの大きさだが、丸みはなく、骨のかたちがハッキリとわかるほど痩せこけてしわしわとしていた。肌は緑鼠色で、衣類は纏っていない。体毛もない。
わたしは、皿のうえの料理が荒らされていくのをぼうっとみていた。食卓についている他の家族は、なぜかこの不思議で気味の悪い生き物に注意も払わなかった。ほんとうは父や母や小学生の弟に助けを求め、共感を得たかったが、胸を渦巻くことばは音にならなかった。
それは気の済むまで食べたらしく、歴史の図録の絵巻物に出てくる餓鬼みたいに腹を膨らませると、ぴょんと高い椅子から飛び降りた。そして、てててっと軽い足取りで洗面所に向かう。わたしは、皿に残った食べかけのベーコンエッグに手をつける気にはなれず、なんとなく後を追いかけた。
わたしがたどり着いたとき、例の生き物は洗面台のふちに手をかけてぶらさがっていた。
「ああ、手でも洗いたいの」
察して、台所から踏み台を持ってくると、それは踏み台によじ登ろうと、台に両手をついて片足を持ち上げる。踏み台の高さの半分くらいまでしか上がらない足先を見て、わたしはたぶん、うろんな表情になっていたと思う。
つい、手が出た。気持ち悪いと考えることも忘れていた。脇に手を差し入れ、ヨイショと踏み台に抱え上げる。思いの外、ひんやりとした手触りだった。それは、礼も言わずに当然のように蛇口の下に手を差し出す。
「水を出せとおっしゃる?」
わたしはつぶやき、つまみを操作する。そうやって世話を焼きながら、ぼそぼそと独り言を言ってしまう自分に苦笑する。いつのまにか、わたしもこの生き物の存在を受け入れていた。ここまでが、ぼそりという名には、こんな由来があるという話。
ぼそりは手を洗い終え、つるりと頭もすすぐと、ぼたぼた水を滴らせたまま行こうとする。
「これこれ、待ちなさいってば」
フェイスタオルでくるむように拭ってやると、ぼそりは嫌がるそぶりを見せ、逃げるように走っていった。
父はテレビから少し目を外してその行先を確かめ、母はぼそりの行先の床に落ちたチラシをそっと取り除き、弟はぶつかりかけて、ひょいと脇は避けた。うちの家族のそれぞれに受容されたぼそりは、テレビ台にかじりつくようにして朝のニュースに見入っている。
わたしたちの日常に、ぼそりはするりと入り込み、居場所を得た。でも、話しかけるのはわたしだけだ。いいえ、わたしとて、会話する気はない。ぼそりの意思を勝手に決めつけて、言語化しているだけのこと。
それをわたしがぼそりと名付けたように、家族もまた各々に異なる名前で呼んでいるのかもしれない。
ひとつきほど前のことだ。夕食を終えて、兄弟でテレビゲームをしていたとき、母が突然、うしろに膝をついた。
「あのね、兄弟がもうひとり増えるとしたら、どうかな」
彼女は藪から棒にそう言って、わたしたちを困惑させた。期待に満ちた目をして、でもどこか不安げな顔つきだった。
弟は完全にゲームに気を取られていて、「別に、なんとも思わないけど」と素っ気なく言ったが、わたしは母の表情が気になった。これは、ほんとうにひとり増えるということではないか。その打診ではないか。
真剣に受け取り、検討して、いちばんに感じたのは不快感だった。わたしはもう中学三年生で、さすがに男女がどうすれば子をなすのかを知っていた。父と母がと考えるだけで気持ち悪かった。自分や弟がそうして生まれてきたことを棚に上げるようだが、嫌だと感じたのは本心だった。
「嫌!」
たったひとことだった。母が困った顔をした。いま何か月で、いついつが予定日でと聞かされてもなお、弟はピンと来ないようすだったが、わたしはかんしゃくを起こして繰り返した。
「やだ!」
涙が出た。いまの生活が安定して満ち足りていると思っていたのに。弟だって十二歳だ。十二年間、この四人が家族だったのだ。わたしには、他の兄弟が欲しい気持ちはこれっぽっちもなかったし、新しくだれかが家族に入り込んでくるというのが、そのだれかがきっとみんなの視線をかっさらっていくというのが納得できなかった。父と母は、子どもがわたしたちふたりだけでは不満だったということか? ずっと、十二年間も?
混乱しながら、わたしはゲームを放って自分の部屋にこもった。自分を否定されたここちだった。
「赤ちゃんなんか、来なくていいのに」
泣きながら眠り、翌日にも友人に愚痴っていたのに、わたしは、翌週にはあっさりと事態を受け入れた。
「わたし、サザエさんとワカメちゃんくらい歳の離れた兄弟ができるみたい」
そんなふうに表現できるようになった。でも、母には取り乱したことを謝らなかった。ふつうに接していれば、考えは必ず自然に伝わると思い込んでいた。
昨日、家に帰るとめずらしく背広姿の父がいた。母は台所に立って、夕飯の支度をしていた。
父が神妙な顔でわたしを呼び寄せ、穏やかに告げた事実をどうやって受け止めたらよいのか、わたしにはわからなかった。
おなかにいた赤ちゃんは、先天性の原因があり、大きくなる前に死んでしまった。
聞かされて、出てきたのは涙だった。おかあさんもつらいからと言う父の前で、わたしは遠慮もなく泣きじゃくった。
わたしは自分勝手だった。あれだけ新しい兄弟を嫌がっていた娘が、その子が死んだと聞いて泣くのを、父と母はどんな気持ちで見ていたのだろう。
ぼそりが現れたのは、その翌日だ。
わたしが、赤ちゃんが死んだのは自分が「来なくていい」と言ったからだと思って、自己憐憫に浸って泣き、目を腫らし、夢にも見て飛び起きた朝だ。
いまも変わらずに、ぼそりはうちにいて、ときに、見た目に似合わぬ可愛らしさを見せる。わたしはそんな存在を失いがたく思いながら、日々、その世話をして過ごしている。
掛け違えたボタンは外すことができなくなった。ぼそりの存在を家族で話題にすることも、家族のだれかに確かめることも、いまとなってはできない。
ぼそりは毎日、テレビに夢中になり、母の買い備えたアイスバーをかじり、父の眼鏡をかけてみて、宿題をする弟の真似をして、隣でえんぴつを握る。
そこに、わたしはいない。わたしは、いない。
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