第八話 ボタンを押す男。

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もうジメジメしていた。 ここに来たのは4月初めだった。東京に居たのだが、仕事がうまくいかず、知り合いを頼り、この高井府という町に来た。 高井府とは、かの学問の神、菅原道真を祀る場所で、府と付く、京都府や大阪府と並んで由緒ある土地だ。 そこから少し離れた、坂入という地にマンションを借りた。 名前の通り、坂の入口にあり、そこから山のほうへ向かう一本道が、私の部屋のベランダから見えた。 中良山、または三歳山という名前の低い山だ。 それは築後数年の新しいタイル張りのマンションだった。間取りは1K、離婚して間もない、荷物はほとんどない、私には充分な広さだった。 この辺りには昔、海を渡り攻めてくる他国軍から府を守るため城があったらしい。駅名にもなっている。 そのマンションは7階建てで、私は5階の501号室に住んでいた。 当然、隣に誰が住んでいるかなどは知らない。 たまにマンションの入口で人と会うと、この人もここに住んでいるんだなと思う程度だ。毎日部屋を出てマンションを出るまでの間に、誰に会わないことも普通だ。 ただ、たまに嫌なことに出くわした。 夜、帰宅し、エレベーターに乗ると全ての階のボタンが押されているのだ。 私は5階に住んでたいたため、各階に止まるたびにドアを閉めなければならないため、とてもイライラした。 「くだらないイタズラするよな」 心の中でそう言いながら トトン と強くボタンを押した。 数日後、夜、帰宅し、エレベーターに乗り込むとまた全ての階のボタンが押されていた。 チッ 私は舌打ちして、「閉」ボタンを押した。 当然、二階でドアが開く。当たり前のようにまたすぐ、「閉」のボタンを押した。 そして三階に着く。 その時、ハッと気がついた。 これはどうやって全てのボタンが押されたのだろうか。 エレベーターのボタンはその階に到着すれば灯りは消える。 一階に到着した時に二階以上の全てのボタンが押されているといるのはおかしい。 例えば、七階で誰かが全てのボタンを押して降りても、エレベーターが一階に降りてきた時点では全ての階で扉が開いて、ボタンの灯りが消えているばすだ。 どの階で押しても、そう階に着けば、ボタンの灯りは消える。 「故障か」 エレベーターの故障になどに遭遇したことはない。 そのまま上へと行きたいが、故障していたら困ると思い、慌てて三階で降りた。 エレベーターを降りると目の前は開けている。ふっと一番奥の部屋の前に立つ、若い男に目がいった。 部屋のドアの前に左手をぶらぶらしながら立っている。その左手を睨むように見ている。 こちら側からは横顔しか見えないが、インターホンでも押して、出てくるのを待っているのか、と思った。 「非常階段か」 そのマンションの非常階段は使ったことがない。辺りを見廻すと、さっき見た、若い男がいた部屋の隣が階段だ。 その男はもう見当たらない。もう部屋に入ったのだろう。 時間は1時を過ぎていた。湿気の多い風が右から吹いて来る。 その男が立っていた、部屋の前を通り過ぎた。 ドアノブにビニールに入った書類がかかっているのが見えた。 九州電力 の文字が見えた。 あれはまだ入居していない部屋に電力会社が手続きのためにかけておく物。引越してきたばかりで、取り忘れたのだろう。  と思い、その部屋ドアの通り、階段を少し降りた時 トントン と、何かを叩く音がした。 しかし、その時あまり気にせず、そのまま自分の部屋に入った。 次の日は休みだったため、起きたのは10時を過ぎていた。昨夜は飲み過ぎたせいか、とても喉が渇いていた。 冷蔵庫には何もない。 ふー と、ため息をつくと、そのままの格好で、部屋を出てエレベーターに乗って下に降りた。 エントランスを出たところにある、自販機に行くためだ。 ポストの中を確認した。チラシがごそっと溜まっている。他のポストも同じだろう。私の501号室のポストの下の下に301号室、昨日のあの部屋のポストがある。 特に見たかったわけではなかったが、たまたま目に入った。 ここは外から郵便物等を入れて、マンションの内側からダイヤルを回して取るタイプのため、外から次々とチラシを入れられてしまうと、開けた時にあふれるようにそれらが落ちてくる。 301号室はチラシが入ってないようだ。キチンとした人が入居しているのだろう、と思った。 その瞬間、後ろに気配を感じた。 慌てて振り返ると 作業着を着た、初老の男性が立っていた。 「すみません」 その人はそう言うと、私の隣の部屋のポストダイヤルを回し、中の物を取り出した。そして、またその隣のポストも開けている。 「なんだ、この人」 その思った時、あのその男は301号室のポストダイヤルにも手を掛けた。あの部屋の住人とは違う。 「あのー」 「はい」 「私、501号室の者ですが、いつもポストを開けてるんですか」 「ええ、居ない部屋だけね。チラシが溜まるたら」 「あー、清掃の方。なるほど」 そう言ってはみたものの、301号室は今、空室ではないだろうと思いながら エレベーターの前に来た。 ふっ 背中に視線を感じたが、振り向くと、あの掃除夫も、誰も居ない。 エレベーターでそのまま、部屋に戻る。エレベーターのドアには窓があり、通過していると各階の様子が見れる。 三階を通過する。あの部屋の前を見るが特になにも見えない。 そう思った瞬間、エレベーターがその階を通り過ぎるギリギリのエレベーター窓の隙間から、またあの部屋の前に立つ、若い男が見えた気がした。 「気のせいか」 さっきからあの部屋のことを考えていたので、錯覚したのだと思った。
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