第二次花咲戦争

1/5
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
「僕は爺さんなんです。勿論、いい方の」   花咲(はなさき)さんが神妙な顔でそう囁くものだから、僕は自分の耳が狂ってしまったのかと疑ってしまった。  進学の為、親元を離れ知らない地に来て既に二ヶ月が過ぎた。これくらい経つと、「そのうち慣れるだろう」などという言葉で隠していたものか誤魔化しきれなくなってくる。もう僕は、二万六千円という破格の家賃に目を引かれ、ろくに内見せずに住居を決めてしまったツケを無視できなくなってきていた。  例えば、引っ越してきた日に満開だった小さな桜が今咲かせているのは毛虫である。彼らは洗濯物を媒介に部屋に侵入し、既に二度僕のことを刺した。風呂はバケツ大。壁は元からカビているし、床はどれだけ拭いてもざらつきが取れない。  しかし、百歩譲っても我慢できないのは、隣人達だ。この二ヶ月で嫌というほど身に染みたのは、僕の右隣に住む花咲(はなさき)さんと、左側に住む灰原さんはとんでもなく仲が悪いということだ。彼らの関係は犬猿の仲、なんて生やさしい表現では収まりきらない。  二人が仲が悪いのは別に構わない。好きに嫌っていればいいと思う。ただ、問題なのは僕がそのとばっちりを受ける羽目になっているということだ。  ある時は生ゴミだった。花咲さんが灰原さんの部屋の前に大量の生ゴミをばら撒いたのだ。その結果として、腐臭が扉の隙間をくぐって僕の部屋に入り込んできたし、その生ゴミ目当てでカラスがやってきた。カラスはしわがれた声でギャーギャーと騒わぎたて、僕宛の郵便物をつついた。  また別の日は、花咲さんの部屋の前に虫の死骸が積まれていた事もあった。生ゴミの仕返しに、灰原さんが行ったことだろう。干からびたミミズ、足の長い蜘蛛、黄ばんだ蛾。どこから見つけてきたのかわからない、鮮やかな黄色のカエルまで。それらを目の当たりにするはめになった僕の気持ちを考えて欲しい。気持ちの悪い有象無象が網膜に焼き付いて今も消えてくれない。軽くトラウマだ。  そんなことが何度も続き、ついに不満が爆発した僕は、荒らだつ感情に身を任せて右の部屋のドアを殴り、花咲さんを呼び出した。ひょこりと現れた、子犬のように人懐っこい笑顔に腹が立つ。  何度か挨拶くらいはしていたが、まじまじと顔を合わせるのは初めてだった。近くで見ると思っていたよりずっと細身で背が低くかった。日曜日の早朝にもかかわらず、寝癖ひとつもみせず清潔感がみなぎっている。男性の長髪は不精に見えがちだが、彼のさらりとした黒髪は耳より下でゆるく結ばれており、いやらしさは微塵もない。長閑な草原に似た柔らかい雰囲気を感じさせる人だ。  しかしひだまりのように微笑まれても、僕の嵐のような気持ちは止められない。キッと睨みつけて、口火を切った。    子供のような嫌がらせはやめて下さい。迷惑しているんです。そう噛み付くように言い放った僕に、花咲さんは冒頭の言葉を返したのだった。いたって真面目な顔をして。 「前の時はいつか改心してくれるかなぁと思って接してたんですけど、結局あのとおりでしょう。だから今度は初めからコテンパンにしてやろうと考えましてね」  顎に手を当てさすりながら、しみじみとした調子で言う。細められた茶色の瞳はやけにしっかりとしていた。 「すみません、話が見えないんですが」 「ああごめん、失念していました。肝心な所を喋っていませんでしたね」  胡散(うさん)な臭いを少しも感じさせない、柔らかい笑顔を向ける。 「自分は前世が花咲か爺さんなんです。それであそこに住んでる灰原が、あの忌々しい意地悪な隣のジジイですよ」
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!