シバンムシ

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 奥様から命じられましたのが、こちらの離れ…書斎の掃除です。 そしてこの部屋に入る時は必ず、目隠しをすること。なにかあれば必ず報告することを厳命されました。  目隠しをして掃除ができるのか? そうですね。どうやら前任は生まれつきの盲目であったらしく、それでも見えないことを逆に活かし細かなことにもすぐに気付く、真面目な忠義者であったそうです。その前任のような…条件の揃う者をすぐに探す心当たりもなく、私にお鉢が回ってきたようでした。    こちらに見えられる際、通られたかと思いますが…本邸から離れに繋がる明り取り一つない、みっしりと漆喰の壁に囲まれた四角い廊下。私はあそこから目隠しをしてこちらに通いました。とはいえ、最初は慣れません。障害物のない廊下は壁伝いに進めばいいのですが、いざ広い空間――この部屋ですね――に入ってみれば、さっそく足元に散らばるなにかに躓き、派手に転びました。  そして、闇。  目隠し越しでも部屋の明るさぐらいはわかります。あまりにものっぺりとした、凝るような黒。黒い世界に、私は一人で立っている…そんな錯覚を覚えました。あと、酷い埃と黴の臭い。前任者が亡くなられて一週間と聞いておりましたが、その短期間にこれほど酷い臭いがするものか…と。  闇と臭いの向こうから聞こえる騒めき。いえ、人の声を聞いたわけではありません。ただ、私が部屋の中に踏み込んだとたん――ざわぁっ、と。  米が笊の上を滑る音にも、人の騒めきにも似ています。  ただ、私が思い出しましたのは。  まだ母が生きていた頃の話です。ある日母は、買った魚を魚籠に入れたまま忘れてしまったことがありました。それをふとした拍子に思い出して魚籠の蓋を開けた途端――魚籠の隙間という隙間から無数の、黒い、小さなモノたちが     ――ざわぁっと…。  すっかり腐っていた魚に虫が集っていたのです。それが母の…人間の気配を感じて一斉に逃げ出したのですね。私はちょうどその場に居合わせて…厨の床を走る無数の黒い蠢きよりも…あの虫たちが一気に逃げ去る『ざわぁっ』という音。あの音が記憶の底から沸きあがったのです。  紙魚を知っていますか? 紙を食う足の多い、細長い虫です。 私の頭に、薄汚れた書斎と書物にたかる無数の虫の様子が思い浮かんで全身が泡立ちました。  しかし、私に選択の余地はありません。身寄りのない女が世を生きていくのは簡単ではありません。本当のところ、目隠しをして掃除をしろなどと、私だって無茶だと思います。それでも、仕方がなかったのです。  私はまず足元を探りました。紙の感触があって、どうやら私が躓いたのは書冊の類であったと気づきました。それが、あちこちに散乱していて…。それらを覚束ない手つきで拾い集め、壁を探り当てて脇に寄せ…埃を落とし、開けた床を掃き…手探り、手探り。初日はまともな掃除にならなかったでしょう。それでも本邸に戻り、ことの次第を報告する私に奥様は「それでよい」と鷹揚に頷かれました。ただ毎日部屋を清め続ければよい、と。  目隠しを取ろうと思ったことはなかったのか、と?  そうですね…怖かったのです。  どう説明いたしましょう…。目隠しの向こう側。闇しか感じられないこの部屋の、その境である一枚布。それを取ってしまったら、私は向こう側の真っ黒な世界に飲み込まれて二度と、光ある世界に戻れないのではないか。そんな恐怖がありました。  馬鹿馬鹿しい妄想です。ですがそう感じさせるものが、あの部屋の黒さにはありました。    それでも、何日もすれば慣れます。 本来なら書冊は内容を確認し、書棚に分類ごとに配架するのが正しいのでしょうが、私は字が読めません。目隠しがなくとも正しい並べ方はできないので、見えずとも問題にはならなかったのです。奥様も承知の上でした。
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