シバンムシ

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 私が若様と会いましたのは、こちらで仕事を始めて三か月の頃でしょうか。  いつものように床に散らばった書冊を拾い集めていた折に、指先の痛みを感じました。複数の針で押し刺すような、そんな痛みです。いつもは手を払えばそれで済むのですが、その日指に乗った小さな虫は、手を払っても落ちず、私の手の甲を這いまわり、そのまま手首の方へと…。  ぞっとしました。このままこの小さな虫が服の中にまで入ってきたら簡単には払い落とせません。私は悲鳴を上げたと思います。必死に腕を振るって…そうしたら、その腕を誰かが優しく取って、手首の虫を払ってくださったのです。  ――ぎゃっ。  小さな、奇妙な音を聞いた気がします。ですがそのすぐ後、からからと朗らかな笑い声が聞こえたのです。姿は目隠しで見えませんが、若い男性の声でした。  これはきっと、私が書斎を出た後にいつも書冊を荒らす犯人だと私は思いました。だから必死で取られたままの腕を引き抜こうと抵抗し、逆の腕を相手がいるであろう場所に向けて振るったのです。その腕も、また相手に掴まれてしまったのですが。  「なにをする。俺はお前についた虫を払ってやったのだぞ」  「書斎を荒らす犯人がなにを言いますか! 大声を上げて人を呼んでもいいのですよ? 貴方が書斎荒らしの犯人だと奥様の前に突き出してやります!」  「書斎荒らし? 俺はそんなことはしておらんが」  声には面白がる色がありました。掴まれた両腕は捻っても引いてもびくともしません。  「毎日虫共に怯まず部屋を清める、働き者の娘がいると思えば。なるほど気が強い。  しかしそうもあちこち噛まれていては気分も悪くなろう。  ほら、傷口を見せてみなさい」  そのくせ相手が…彼がひょいっと腕を捻ると私の体は操られるように、すとんと床に腰を落として。そうしてあの方の優しい手が先ほど噛まれた場所になにかを塗ってくださったのです。甘い香りの…薬だと、あの方はおっしゃいました。  手つきはとても優しくて。その指先は滑らかで…奉公人特有の肌荒れを感じさせません。言葉使いも品があって。なにより相手は正確に私の手の上の虫を払い、傷を治療し…。どうやら目が見えているようなのです。  この部屋に入る時、目隠しをしないのは唯一、奥様だけです。奥様と一緒に入る供の者たちですら、目隠しは必要でした。 私は相手の正体が気になりました。  「あなたは誰ですか?」  「おかしなことを。  俺は八雷だ。八雷の(さき)という」  この屋敷は八雷屋敷です。そこに住まわれる奥様の性もまた。私には親しくしてくれる奉公仲間はいませんが、それでも聞こえてくる声はあります。奥様の旦那様は数年前に亡くなられたこと。そしてご子息が一人いらっしゃること。  では、私に治療を施してくださるこの方は、屋敷の若様ということになります。  治療を終えた若様の手が私から離れますと、私は床に額を押し付け自らの不遜を謝罪いたしました。若様はそんな私を許してくださったのです。  「なに、敬虔なお前に免じて許そう。  それと、な。シバンムシに噛まれた傷はあまりそのまま放置しない方がいい。あれらが害するのは紙だが、人が噛まれて良いこともない」  シバンムシ。  若様はこの部屋にいる虫を、そう呼びました。  「紙魚はわかるな? あれはその一種よ。ただ紙ならなんにでもつく紙魚と違って、シバンムシは人別帳につく。正しくは人の名が書かれた紙だな」    シバンムシは人の名を好んで食べるのだと、そう若様はおっしゃられるのです。  私は想像してみます。  足元に乱雑に積み重なった書冊。その隙間から黒い小さな虫が這い出てきて…頁の中に潜り込み人の名を食む姿を。  ぞっとする光景です。もちろん目隠しをしている以上、シバンムシの姿は想像でしかありません。ですがきっと悍ましい姿をしているのでしょう。  「書斎を荒らしているのもシバンムシだろう。書棚から書冊を落とし、めくれた頁の名を食う」  虫が書冊を動かすなど、信じられません。ですが、若様の言葉には力がありました。得体のしれない虫を怖く思う気持ちが、改めて生まれました。  でも、若様に会えたから…。その日以降、書斎ではたびたび若様と会いました。若様はとても物知りな方で、私が部屋を掃除している間に色んなことを聞かせてくださいます。  この国の歴史、八百万の神々、恐ろしい異形の者や、美しい天女の話。若様の声は耳の奥から頭に染み込むような美しい声をしていました。  時折話を止められては「そちらはシバンムシが多い、逆の方に向かえ」と優しいお言葉まで。  たまにシバンムシに噛まれると、若様は手ずから私の治療をしてくださいます。とても幸せな日々でございました。あまりにも、幸せな…。  とはいえ、こんなことはとても奥様には申せません。こんな、身分違いな…。
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