シバンムシ

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 半ば崩れた、うらぶれた屋敷の前。薄汚れた神主姿の男が、気難しい顔でその屋敷を眺めている。名を(きよ)。二十七歳にして、京でその名を知らぬ者はいない“外法”陰陽師である。  ――おえぇぇ…。  近くの木の影から、弟子が盛大に吐く音が聞こえてきて…汐は肩を竦めた。うん、まあ、あれは衝撃的だったなぁ、と魑魅魍魎に慣れたはずの汐も思う。背後の屋敷、その最奥で出会った累と名乗る娘の、あれは。  「…人面虫なんて初めて見ましたよ。あの、胡麻粒みたいな虫に、娘の、人の顔がくっついてんすよ? しかもその背後にゃ、もっといた。人面虫が集る様なんざ…師匠、よく平気であんな化物と会話できましたね  ましてあの娘、目ん玉潰れてたじゃないですか」  弟子の栄治が木の影からよろよろ這い出てくる。汐より十は年上の大柄な男は、顔を真っ青に情けない有様だ。  人面虫。この屋敷の最奥にある書斎。そこで、あちこち食い尽くされ散らばった紙束の中から娘の顔を覗かした、黒い虫。しゃ、しゃ、と大根をすりおろすような音の声は聞き取りづらく、また周辺の紙束から――ざわわっと騒めく同じような異形の虫たち。  「なんですか、アレ」  「彼女の話にもあったじゃないか。あれがシバンムシだろう」  栄治の口が『シ』の形で固まる。  「八雷屋敷…八雷家の名は八雷神から頂いたと聞く。  八雷神は古事記において、黄泉に落ちた伊邪那美命が抱えていたという、死の穢れを司る神だ。そして八雷家は、呪詛…特に呪殺を得意としていた。呪う相手は主に朝敵だったが、世が平安を迎えてからはもっぱら権力者たちの政敵へとその力が向けられた」  一時は栄華を極めた家である。  「字を書くなら『死番虫』か。  あれは人の名を食うと若様とやらは言ったんだろう? 書斎にあったのは、八雷家が殺した者たちの…いわば呪殺名簿だ。  死者の魂が動植物に変化する逸話は昔からことかかない。死番虫もその類じゃないかな。 うちで殺された連中が、その死を認められず、あるいは家族を心配して呪殺名簿から自分や家族の名を探し、食む…。呪殺名簿から名前を食い消す」  栄治が「ひょえっ」と体格に似合わぬ悲鳴を上げる。  「知ってたんですか、あんな化物がいるって」  「まさか。俺はお役目を頂く前にこの屋敷を飛び出したからな」  結局、汐は外法の者となり果てて、こうして更なる力を求め屋敷に戻ってきた。数年前に突然絶えたという己が家へ。  死番虫については、おそらく母は知っていただろう。だから累に目隠しをさせた。  「色々疑問はありますけど。そんな、死番虫が集るような呪殺名簿なんて、なんで残してんすか」  「先祖代々の家業だ。実績は残したいものだろう」  「そんな大事な物を置いている場所に、なんで新人あてがってんすか。なにも事情を話さずに」  「新人だからこそだ。家には昔ながらの奉公人の方が多かった。そこにあえて、新人を雇ったのは…なにかあったとき心痛まずどうとでもできるからだ。  実際、彼女の話を聞くに…他の奉公人たちとの間に明らかな溝が見受けられる」  「それって…つまり…。  死番虫になっちゃってたあの女中さんも、結局は口封じかなにかで呪殺された…?」  そこだよな、と汐は唸る。累の前の書庫を管理していた盲目の女中なら汐も知っている。まさに忠義者といった老婆で、長年屋敷で働いていた。  先程、累は昨年から働いていると言った。彼女が言う疱瘡の流行やら金剛峯寺の延焼などは十年も前の話だ。一年で累の記憶が止まっているというのなら、彼女はここで奉公して一年目に亡くなっていると考えるのが妥当だ。切り捨て前提だったとしても、目隠しまで促した上ではあまりに早い。  ならばやはり、関係あるのは彼女が見たという『若様』。その姿を見たと語る彼女の様子は、明らかにおかしかった。本物の若様はここにいる。なら、その『若様』の正体とは…。  「八雷家は古来から朝廷の命を受けて、朝敵を呪殺してきた。死番虫も最初からいたわけじゃないだろう」  「?」  「ただ、殺した数が多すぎたのか。人を殺せば恨みが湧く、恨みが淀みを生み、淀みは穢れとなり、死者の魂たる死番虫を呼び寄せた。だから部屋を清め続ける必要があった。…だが、それでもさらに穢れは貯まり続け、そしたら最後にはなにを呼び寄せる?」  ――人を呪わば穴二つ。  八雷神とは死者の国…黄泉の国に住まう八柱からなる死の神である。  そして、若様とやらは八雷の祈と名乗った。  その八雷神の一柱には、祈雷(せきらい)という神がいる。  あ、これ…若いうちに家から逃げ出しといて正解だったかも。と、汐は思った。  そして累は、若様がそろそろお戻りになられる頃だと言ってなかったか。  どばどばと汐の背筋に嫌な汗が流れる。子供の頃、確かに寝食を頼っていた我が家にはまたぞろ大層な存在が同居していたものである。  「ガチの死神呼び寄せてんじゃねえか」  それは、家も絶えるはずだ。  八雷家は八雷神の力を借りて呪殺を行う。累はあの部屋で『死』を直視してしまったのではないか。だから目が潰れた。あんな姿になった。そして死を自覚せず、この世を彷徨っている。  ぴか、と頭上で雷が鳴った。八雷神は死神であると同時に、その名のとおり雷の体現者でもある。  「よし、逃げよう」  「あ、ちょっと! 師匠!?」  すたこらさっさ。  二つの人影が去ったあとで、稲光がうらぶられた屋敷に落ちる。  ――ざわわっ、ざわっ。  雷の音に、虫の騒めきが答えた。
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