部屋とシャチと私 

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ぱちりと目をあけると、目の前にあったのは赤みがかった暗い空洞だった。 「んん…??」 ぱちぱちとまぶたを上下させる。眼鏡が無いのでよくみえない。 ごそごそと手探りで枕元を探り、ピンクのフレームの眼鏡を手に取る。 くっきりした視界でよくよく見ると、それは何かの口だった。 視界の隅にギザギザの歯が並んでいるのが見える。 「え、え、なにこれ?」 布団のはしっこを掴んだまま混乱した声が自分の喉から洩れる。 私の声に反応するかのように、すっ、とその空洞が視界から引いていく。 空洞のまわりがだんだんと見えてくると、その外側は上が黒、下が白のツートーンだった。遠ざかるにつれて、やっと全体が見えてくる。上のほうにちょっと白い模様がみえた。 『なーんだ、起きちゃったかー』 口がしゃべった。そしてわたしは今の状況を理解した。 シャチが目の前であんぐりと口を開けていたのだ。大きい。3メートルくらいあるだろうか。 『きょうも食べられるとおもったんだけどなー』 表情豊かにそのシャチはつぶやいた。私のベッドよりもずっと大きいそいつは、いかにもつまらなそうに身をよじった。 『あーあ、きょうは食べられなかったなー、つまんなーい、つまんなーい』 ごろんごろん、と動き回る。そんなに大きくない私の部屋の中を遠慮なく転げまわっているけど、不思議なことに部屋がめちゃくちゃになることはなかった。尾びれが天井にぶつかりそうになると、にゅるっっ、と天井をすり抜けた。ひとしきりごろごろして気が済んだのか、シャチはくるりとこちらのほうを向いて話しかけてきた。 『ねえねえ、はやおきだね。めずらしいね。どうしたの?』 「えっと。今日はその、部活の練習があるから…」 『へー、ぶかつってなに?』 「え、吹奏楽…」 『すいそうがく?』 不思議そうに首をかしげる。君の方がよっぽど不思議なんだけど。 君は何?どうしてしゃべっているの?なんで私の部屋にいるの?さっき私のこと食べようとしてなかった? 頭の中をそんな疑問が駆けまわっているけど、言葉にする前に話かけてくる。 『ねえねえ、すいそうがくってなあに?』 「えーと、楽器を使って、音楽を演奏する部活」 『おんがく!』 嬉しそうにびたーんと尻尾を跳ね上げる。 『きいたことあるよ、おんがく!楽しくなるやつだね』 「…私はあんまり、楽しくないかな」 『えー、なんでー?』 なんでって、それは、やりたいパートに選ばれなかったし、いくらやっても上手くならないし、いやな先輩もいるし。 考えると胸のあたりがもやもやとなってくる。 『あー、なんかもやもやしてるー』 「…わかるの?」 『わかるよー』 「そうなんだ」 「わかるよ」って言ってもらえたのは久しぶりな気がする。 「頑張ればいいんだよ」とか「もっとみんな努力してるよ」って言われてばっかりだったから、なんだかちょっと嬉しくなった。 「あの、ちょっと顔を洗ってきたいんだけど、どいてもらえる?」 『いいよー』 ごろん、と転がってベッドから離れてくれた。大きな体の半分くらいが壁にめり込んでいる気がするけど、気にしていないようだ。 ベッドから出て、おそるおそる脇をすり抜け、ドアを開けて廊下に出る。 後ろ手にゆっくりとドアを閉めてから慌てて階段を駆け下り、洗面所に飛び込むと蛇口を全開にしてバシャバシャと顔を洗う。 (なんなのあれ!シャチ?でもシャチってしゃべらないよね?、夢?、でも私いま起きてるよね???) ハンドタオルで顔を拭いて一息つくと、混乱しっぱなしの頭が少ししゃっきりした。 「…よし」 意を決してそろそろと階段を上り、ドアを静かに少しだけ開けて部屋を覗くと、(まだいる…!?) シャチは楽しそうにパタパタとひれを振っていた。鼻歌でも歌っていそうだった。 『あ、もどってきた』 ドアのほうを振り向いたシャチがこちらに気づいた。おそるおそるドアを開け、壁に掛けてあった制服を手に取って着替える。 『きょうはもうねないのー?』 「…?うん、これから部活に行かなきゃだから…」 『そっかー、じゃあゆめをたべられるのは、またあしたかなー』 夢、を、食べる? 「え、私の夢を食べるの?」 『そうだよー、いってなかったっけ?きみのゆめはおいしいんだよ』 「じゃあ、さっきも私の夢を食べようとしていたの?」 『そうだよー、さいきんまいにちたべてるんだー』 そういえば「今日もたべられると思った」とかなんとか言っていた気がする。確かにこのごろ朝起きると夢をまったく覚えていない。 4月くらいは毎晩夢見が悪くて朝起きてもなんだか疲れが抜けていなかった。 「そうなんだ、私の夢を食べてるんだ」 『そうだよー、きょうのよるもいいゆめみてほしいなー』 夢を食べるっていうとバクみたいなものなんだろうか。でもどう見てもシャチなんだけど。 ふと時計を見るともう7時をまわっていた。慌てて楽譜の入ったリュックを掴んで部屋を出る。 「あの、えと、行ってきます!」 『いってらっしゃーい』 部屋を飛び出し、階段を下り、スニーカーを履いて「行ってきます」と家の奥に声をかけてから玄関を出る。 自転車にまたがって立ち漕ぎしながら、なんだかさっきの間抜けなやりとりが笑えてきた。 「シャチってなんなの、シャチって。シャチがいってらっしゃいって!」 パートの事とか、練習のこととか、先輩のこととか、もやもやしてた事がどうでもよくなってきた。 夢かもしれないけど、何がなんだかわからないけど、私の部屋にはシャチがいるのだ。 私は強く自転車のペダルを踏みこんだ。
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