夏がいた話

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 海沿いの堤防道路を、通学用の自転車で走っていく。  七月も半分が終わったと言うのに、気温は肌寒く、空は霞んでいた。走りながら海岸を見下ろしても人の姿は見えない。海で泳いでいる人なんて当然いない。海開きもいつになるかわからないそうだ。夏がちっとも来ない、とテレビでは連日話題になっている。  堤防道路を曲がると、すぐそこに我が家がある。自転車を停め、家に入る前に俺は学ランの上を脱いだ。汗ばんだからじゃない。むしろこれから汗をかくからだ。 「ただいまー。」  家の古い引き戸を開けて声をかけると、奥からパタパタと子どもが走ってくる足音が聞こえた。 「おっかえり!」  元気な声で、小学生くらいの女の子が玄関へ姿を表す。  同時に強い熱風が俺の体を吹き付けた。遠くの方でセミの鳴き声が聞こえた気がする。 「なっちゃん。今日もいい子にしてた?」 「よゆう〜。」  少女は得意そうに笑う。短い黒髪の、日焼けした肌に白いワンピースが似合う小さな女の子。  彼女は小さな手で俺の手首を掴むと、早く早くと家の中へと急かす。 「今日もハル君が来ててさあ。」 「最近よく来るね。」 「暇なんだろうねえ。」 「暇じゃないですよ!」  部屋の中にはまた小学生くらいの年頃の少年が、真っ赤に頬を膨らませて怒っていた。  机の上には食べかけのスイカと麦茶が置いてある。  僕は額の汗を拭って、ハル君の機嫌を伺うように苦笑いを浮かべた。 「毎日来てもらってごめんね。」 「もう! 貴方からも説得してください! この人を!」  ハル君は、なっちゃんを指差す。彼女は涼しい顔をして目を逸らす。その反応が気に入らなかったのか、ハル君は地団駄を踏んで叫んだ。 「ナツが外に出ないと、ずっと外が夏にならないんですから!」  そう。俺の家にはなっちゃん……ナツ……夏がいる。  去年の九月一日から、ずっと。夏がちっとも来ないのは、俺の家にいるからだ。  その日のことは、今でもしっかり思い出せる。二学期が始まる始業式の後、昼ごはんをどうするか考えながら、下校した俺の家の前に、なっちゃんは一人で立っていた。 「君が終わって欲しくないって言うから、残っちゃったよ。」  まるでずっと昔から友達だったかのように、彼女は親しげに話しかけてきた。  日に焼けた小麦色の肌。白いワンピースで、黒い短髪。大きな目をキラキラさせた、小さな女の子。  そんな子どもの知り合いなんてなかったから、おそらく迷子だろうと家に保護して、俺はすぐに近所の交番に通報した。でもやってきたお巡りさんは、目の前にいる彼女のことがわからなかった。明後日の方角を見て、彼女の姿がまるで見えていないようだった。 「悪戯はやめなさい。一人暮らしが寂しいのはわかるけど。」  そう優しく微笑んで、すぐさま帰ってしまったのだ。暖房を入れるのは少し早いんじゃないか? と言い残して。 「お巡りさんの中では夏は終わってるんだから、私がわからなくても仕方ないかな。」  居間に座って、いつの間に作ったのか素麺を啜りながら、少女はあっけらかんと笑っていた。 「君は誰?」 「私は夏だよ。……もしかして迷惑だった? てっきり君は、私ともっと居たいと思ってくれているとばかり。」  ふと少女の顔が曇る。さっきまであんなに楽しそうだったのに。夏の天気みたいに、表情が変わるんだな、と俺は思った。   警官が言うように、一人暮らしが寂しいのは事実だった。両親は外国で働いている。古い民家である我が家は、俺が一人生活するには部屋が多すぎた。 「ええと、なっちゃんは俺と一緒にいたいの?」 「なっちゃん!」  あはは、と彼女は嬉しそうに笑った。 「可愛いあだ名をありがとう! そう言われると照れちゃうな。本当は君が私といたいだろうと思ってきたんだけど、そう聞かれると、そうかもしれない。」  そう言って、彼女は俯いた。見た目はとても幼い姿なのに、妙に言い回しが大人ぶっている。それは彼女が人間じゃないからだろうか。 「なっちゃんがいたいなら、好きなだけいてくれていい。俺も、嬉しいかな。」 「ありがとう!」  彼女は雲一つない晴天のような笑顔でお礼を言った。俺は額に滲んだ汗を拭った。警察官が言ったように、暖房なんていれていないのに、妙に部屋の中が暑い。 「それは私が夏だから。この家はこれからもずっと夏だよ。」  嬉しい? となっちゃんは屈託なく笑った。君が望んだことでしょう? と。  その時はまだ、自分のことを夏だと言い張る彼女のことを全て信じたわけではなかった。  でも、確かにその年の秋は残暑がなく、あっという間に涼しくなって、順当に冬が来たのだった。 「地球は太陽の周りを少し傾いて回っているから、太陽の光を浴びる時間が長い期間が夏、短い期間が冬だって、学校では習ったよ。」 「君は賢いなあ。」  本当に、それからずっと彼女は俺の家で暮らしていた。  冬になって、外は雪が降るようになっても、家の中は暑かった。帰ると家の中に入る前にコートとマフラーをとるのが習慣になった。暑い、と言っても嫌な暑さじゃなかった。カラッとした、夏休みの午前中のような暑さ。冷蔵庫にはいつも麦茶が冷やされていて、おやつにと、なっちゃんはどこからかスイカを持ってきてくれることが多かった。 「そういう説もあるけどね。春と夏と秋と冬がいて、順番に生活してるからでもあるよ。」  彼女はいつも白いワンピースだった。他に服を持っているか聞くのは、なんだか失礼なような気がして聞けなかった。精霊のようなものだったら、服も含めての『夏』なのかもしれない。 「じゃあ、今は冬ちゃんが来ているんだ?」 「来てるね。会いたい? 呼んであげようか。」  軽く彼女は答えた。  もし冬が我が家に来たら、室温はどうなるんだろう。お風呂の湯みたいにぬるくなるのだろうか。 「そうしたら、外はどうなるんだろう。」 「ちょっとの間なら、少し寒さが和らぐくらいじゃない?」  でも、怒られちゃうかな。と、なっちゃんはバツが悪そうに笑った。 「どうして?」 「あんまり褒められたことじゃないからね。」 「なにが?」 「なんでもー。」  そう言って、なっちゃんは逃げるように縁側へ走っていって、庭に飛び出した。  真冬なのに、周りには雪が積もっても、うちの庭だけぽっかりと夏のままで、大きなひまわりが枯れることなくずっと太陽へ向かって花を咲かしている。 「この家ではずっと夏が続いてる。」  楽しそうに、彼女は庭を走り回る。遠くで波の音が聞こえる。  結局、俺は冬ちゃんの姿を見ることはなかった。  そして数ヶ月後には春が来て、外は暖かくなり、桜が咲いて、散って、梅雨が来た。  我が家にも、春が来た。 「こんにちは。」  それはなっちゃんと同じくらいの年頃の男の子だった。おかっぱ頭で、半ズボンを履いた、新一年生のような可愛らしい姿の少年。 「どちらさま?」 「春です。冬に聞きました。夏、まだここにいますか?」  礼儀正しいけれど、不審そうな顔で男の子は俺を睨みつけていた。 「えっと……。」 「あ、ハル君じゃん。ヤッホー。」  玄関先でそんなことになっていると、なっちゃんがすぐに気がついて部屋の奥から少年に手を振った。 「本当にいた……。」  男の子はボソリと呟くと、大きな声でなっちゃんに怒鳴った。 「何してるんですか! 早く外に出ないと、いつまで経っても夏にならないでしょう!」  ああそうか、彼女はいなくなってしまうのか。と俺は少年の言葉を聞いて冷静にそんなことを思った。  一年を通してずっと彼女と生活をしていて、俺は彼女のことを本気で夏の精霊だと理解していた。世界を夏にするために、彼女は俺の家から出て行かなくてはならない。  春が迎えにきてしまったんだと。 「えー。」  俺が素直に彼女との別れについて考えていると、 「イヤだよ。私、外には出ないー。彼と一緒にいるんだ。」  夏は、外に出るのを断ってしまった。  それから連日、ハル君はなっちゃんを説得に来るようになった。 「貴方からも、出て行けって言ってください!」 「そうは言っても……。」  なっちゃんはハル君がどんなに言っても俺の家から出ないの一点張りだった。  今日も話し合いを避けるように庭に出て、枯れないひまわりへホースで水を撒き散らしている。 「貴方も迷惑でしょう? 夏が家にいるなんて。」 「いや、それが全然迷惑じゃないというか……。冬は暖房要らなかったし、彼女がいると家が賑やかで……。」 「なに快適に暮らしちゃってるんですか!」  もう! とハル君は机を叩いて怒る。ハル君の言いたいことはわかるから、強く否定はできない。世界に夏が必要なのはわかっている。 「夏が来ないと、お野菜の育ちが悪くなって、農家さんが困るんですよ。」 「いや、わかる。わかるよ。」  それでも、一緒にいたいと言ってくれる彼女を追い出すようなことはできない。 「私って、嫌われがちな季節なんだよねー。」  庭で遊ぶのに飽きたのか、なっちゃんは縁側で寝っ転がってこちらを見ていた。 「やれ、紫外線だー。肌が焼けてシミができちゃうー。だの、暑すぎるー死んじゃうーだの、文句が多いのよ。人類。」 「そんなこと言ったら、春だって花粉が多いーだの、風強すぎーだの言われますよ。」 「じゃあハル君もこの家住んじゃえば?」 「文句言われてもちゃんと季節やってるから、あなたもやってくださいって話ですよ!」  二人の話はどこまでも平行線で、なっちゃんは絶対に首を縦には振らない。  お断りだよ! と言って、広い家の中のどこかへ隠れてしまう。 「あなたのせいなんですよ。」  ハル君は、なっちゃんを見失うと俺にも怒る。 「あなたが夏にずっといてほしいって言うもんだから。」  どうして、ずっといてほしいんですか? とハル君は俺に尋ねた。 「夏なんて、黙ってたら毎年巡ってくるのに。どうして一緒にいたいなんて言ったんですか?」 「いや、なっちゃんの方が、いたいって……。」  ハル君に改めて言われて、俺は考える。そういえば、彼女が最初に家に来た時、俺が終わってほしくないと言うからだ、と言っていた気がする。 「とにかく、見てください。これ。」  ハル君はカレンダーを指さした。七月。明日は二十日。今年の海の日だ。 「夏が来ないと海開きもできませんよ!」  海。俺は記憶の蓋が開くのを感じた。 「ハル君は帰った?」  静かになったのを見計らって、なっちゃんは居間に顔を出した。 「うん。また明日来るって言ってた。」 「しつこいなあ。」  やれやれ、と彼女は大人がやるように肩をすくめて首を振った。 「冬ちゃんは見逃してくれたけ、流石に春は怒るかー。」  ぐったりと、彼女は床に寝そべった。遠くで蝉の声が聞こえる気がする。  開け放たれた縁側から、夏の夜の匂いがする風が、家の中へと吹き込んでいく。波の音が聞こえる。 「なっちゃん。」  俺は寝そべる彼女の隣に座る。 「なんだい。説得? どうしても君が出てけって言うなら、私は出てかざるを得ないけど。」 「説得、というか。なっちゃんは俺が、夏が終わって欲しくないって言うから来たって言ったよね?」 「そうだね。君は夏が大好きだから。」  つまり、私が大好きだから。となっちゃんは得意そうに笑った。 「それなんだけど。」  俺は言葉を選ぶ。さっきハル君が蓋を開けてくれた記憶を整理しながら。 「夏は、海外で働いている両親が長期休暇を利用して帰ってきてくれる。」 「それは、私が好きなんじゃなくて、両親が帰ってきてくれるから夏が好きなんだって言いたいの?」  なっちゃんは天井を見上げてこちらを見ない。 「違う。」  そうじゃない。  「二年前まではこの家には祖母がいて、二人暮らしだった。親の教育方針で、成人するまでは俺は日本で育てる予定だったから。でも祖母が亡くなって、二人は俺を引き取って海外で一緒に暮らそうって言ってくれた。けど、俺は残った。」 「なんで?」 「この町が好きになってたから。この町の、海が。」  なっちゃんは、首を動かしてこちらを見た。 「毎年夏になると、いろんな人が海で遊ぶために来てくれる。とても賑やかになるんだ。」 「知ってる。私は夏だからね。夏の海は楽しいよね。」 「小さい時から、祖母に付き合ってもらったり、学校の友達と一緒に泳ぎに行ったりした。」 「知ってる。でも君、泳げないよね。海の町に住んでるのに。よく溺れかけてる。」 「そう。なんだろう。どうやっても泳げないんだ。だから海の監視員の人に、助けてもらったりね。……なっちゃん。監視員の人は知ってる?」 「どうだろう。」 「毎年、海開きになると海の家が何軒か開いて、同じように監視員の人が砂浜に配置されるんだ。背の高い監視員用の椅子に座って、海で溺れてる子どもとか、変なことが起きていないか見守る人。バイトなのかな。いつからか、毎年同じ人が監視員で来てることに気がついて。その人に助けてもらったことがあるんだけど、多分その人はこの町の人じゃないんだ。海以外で見たことがないから。」 「ふうん。」 「髪の短い、女の人。」 「その人が好きなんだ?」  いたずらっぽく、なっちゃんは笑った。 「……俺が、両親と一緒に海外に行かなかったのはこの町の海が好きだからだけど、この町の海が好きなのは、あの人がいるからなんだ。あの人がいるから、俺は夏が好きで、あの人がいなくなるから、夏に終わってほしくないって、毎年気が狂うくらい念じてしまう。」 「うん。」 「なっちゃん。」 「なにかな?」 「なっちゃんがこのまま俺の家にいると、海が。」 「海開きしないね。夏にならないから。そうすると、その女の人が海に現れないね。」 「なっちゃん。俺は夏が好きなんじゃなくて、その女の人が好きなんだと思う。」  名前も、知らないのに。  随分とひどいことを言っている。俺は彼女の顔が見れない。 「なっちゃん。この数ヶ月ずっと俺と暮らしてくれてありがとう。とても楽しかったし、俺はなっちゃんのことが大好きだよ。でも、なっちゃんが外に出ないと夏が来なくてみんな困るし」 「その女の人が来なくて、君が困るんだね?」  よしよし、と彼女は小さい手を伸ばして俺の背中を撫でた。 「私もね。このワガママはそろそろ限界だと思っていたんだ。」 「ごめん。大好きだよ。」 「フラれているのか告白されているのか、変な感じだな。」  まあ、私も悪かったよ。と、なっちゃんは立ち上がって、外を見た。  波の音が聞こえる。海の香りが、風に乗って部屋に漂う。 「じゃあ、またね。」  それだけ言うと、夏は縁側から外へと飛び出して、夜の闇にとけて、そのまま消えてしまった。  次の日の朝は、蝉の大合唱で目が覚めた。  テレビをつけると、海開きのニュースがやっていた。今日、急に気温が上がったことで、予定通り海の日に海開きになったという。  なっちゃんは、家に戻っては来ていなかった。居間の机には一枚の紙が置いてあって『説得ありがとうございました 春』とだけ書かれていた。  外に出ると、ずっと肌寒かった気温が一転して、室温と同じくらいかそれ以上に暑かった。日差しは真夏並みに照りつけていて、入道雲がもくもくと沸き立っている。俺は自転車に乗って、堤防道路を走り、海水浴場へと走った。  町のみんなの行動は早く、砂浜にはもう海水浴に来ている人が何人もいて、海の家も立っていた。もちろん、監視員の背の高い椅子も設置されていた。  砂浜に自転車で降りて、椅子のすぐそこまで走っていって、俺は下から監視員さんを見上げた。いつもの女の人だった。黒い短髪で、白いラッシュガードを着ている。 「こ」  こんにちは、と言いたいのに上手く声が出ない。 「……。」  下にいる俺に気がついて、女の人は顔を下に向けてくれた。瞳が大きい、大学生くらいの女の人。  目が合ってしまうと、言葉が出ない。帰りたい。なっちゃんのことを思い出す。数ヶ月間ずっと一緒にいてくれたあの子。あの子を追い出してまで会いたかった人。声をかけないと、あの子に顔向けできない。 「こ、んにちは。」 「はい、こんにちは。」  元気よく、女の人は答えてくれた。夏のように爽やかな声だった。 「泳ぎに来たのかな?」 「い、いえ。あな、あなたに、会いに来ました!」  やけくそに声をふりしぼって叫ぶと、あははと笑って女の人は椅子から降りてきてくれた。 「いの一番に会いに来てくれて嬉しいよ。」 「えっ、はい。ええと?」 「ええと? まだわからないか。君は鈍いなあ。」  砂浜に並んで立つと、思ったよりも彼女の身長は高かった。白いラッシュガードの裾は長くて、ワンピースのように見える。大きな瞳がキラキラと光っている。 「てっきり君は、私を私だと思って受け入れてくれたと思ってたんだけど。」  大人っぽい、独特の言い回しには覚えがあった。声の調子も、落ち着いているけれど聞き覚えがある。俺はこの声を、この人を知っている。 「……なっちゃん?」 「せいかーい!」  あはは、と彼女は楽しそうに笑った。 「な、なんで! なっちゃんてこんな、子どもで、小さくて。」 「なんでって、このままの姿だと君の家の中が暑くなりすぎて死んじゃうから、小さくなって調節してたんだよ。」  小さい姿の方が君の好みかな? と、なっちゃんさんは笑う。 「ちゃんと説明しなかった私も悪かったよ。去年の夏の終わりに会いに行った私を、監視員の私だって君は気がついてなかったんだね。」  同一人物だなんて、まったく思いもしなかった。むしろ、昨日話をするまでなっちゃんとの生活が楽しくて忘れていたくらいだ。昨日? 昨日!  その昨日話したことを思い出して、俺はじわじわと顔が熱くなっていくのを感じる。 「俺、俺、昨日そんな、全然わからなくて、こ、告白してませんでしたか!?」 「昨日もしてたし、去年もしてたよ。夏が大好きだーって。終わらないでくれーって。」  なっちゃんさんは、夏の空のような眩しい笑顔でこういった。 「夏も、君のことが大好きだよ!」
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