恵畑 弘道

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恵畑 弘道

鉄筋コンクリートの建物は、ひと気が無くなると急に音が響き渡る。 外は昼過ぎのいい日和で、きっと日向にいたらそのまま眠くなってしまうのだろうけど、ここは日陰でひやりとしている。 校舎の隅っこの美術準備室。 俺のテリトリーではないけれど、勝手知ったるなんとやらで俺はコーヒーを淹れる。 いい香りをしておちていくコーヒーを眺めていて、そうだカップを出さねばと思いだし、三個並べたところで、ため息をついた。 違う。 雄一郎は今日はもう来ないだろうから、二個でよかった。 ペタリペタリと、遠くから足音が近づいてくる。 高等部の別館には『妖怪ペタペタさん』がいると、中学生の時に噂を聞いて、わくわくしていた弟の顔を思い出した。 あんなに素直でかわいかった弟が、あんな阿呆の毒牙にかかってきれいになって、今日は卒業だよ。 そりゃあ俺も歳をとるよな、と、またため息をつく。 からりと扉を開けて、この部屋の主がやってきた。 さっきまではそれなりにきちんとした礼服を着ていたのに、いつもの白衣に着替えている。 「邪魔してるよ」 「おー。バタ、お疲れさん」 上原卓美というこの部屋の主は、俺が学校長をしているこの学校の美術教師で、いつもくたびれた白衣を羽織り、ペタリペタリと音をさせて歩いている。 不思議なことに、学生としてこの学校で過ごしていたころから、卓美の印象といえばくたびれた白衣と足音なのだ。 全く変わらない。 「あ、コーヒー。さんきゅ。丁度欲しかったんだ」 差し出したカップを受け取り、卓美は部屋の隅にあるイーゼルに向かう。 キャンバスにかけられた布を取り去り、そのままじーっと眺めている。 自分の作品を描くとき、いつも、こうやってコーヒーを飲みながら何かを眺める。 「そういやさあ、校門、えらい騒ぎになってたね」 笑いをこらえた声で、卓美がいった。 卒業生が学校から出ていく時間にあわせて、弟の恋人が、花束を持って出迎えに行ったのだ。 この学校は自分の職場だっていうのに、自分のことよりも、弟の門出を祝いたいといって。 弟を大切にしてくれている気持ちは、大変嬉しい。 しかしそれは、冷静な時に兄の立場で思うことで、学校長の立場に立てば『ふざけんなこのくそ教師!』だ。 そして。 ものすごい本音をいえば、俺のかわいいよしくんを返せ! なのだ。 「ホントにさー、雄一郎のバカが! ウチのよしくんまで巻き込みやがって~」 「や、あれ、雄一郎だけじゃないよ。去年の……ほら、覚えてるかな、生徒会長やってた鎌田」 「あの、美人か?」 去年の卒業生で、やたらキレイで人気のあったのがいた。 弟の親友がそれの恋人だとかで、去年の卒業式で大騒ぎをおこして去っていったのは、まだ記憶に新しい。 男の恋人が男とか、普通になっているあたり、ちょっとうちの学校どうよって気がしないでもない。 男子校に毒されているというか、先進的だととらえるべきか。 まあ、馬に蹴られる気はないんだけど。 「そうそう。あれが、雄一郎と同じ思考回路だったらしくてさ、今年は二人して花束抱えて校門にいたわけ」 「あー……なんとなく、わかった。去年の続きをやったわけだな?」 「そうそう」 ってことは今頃、校長室には電話がかかっているんじゃなかろうか。 職員室はまあ、いわずもがなで。 念のためにとまわした手が、無駄にならなかったことに、俺はため息をつく。 そろそろ休憩時間も終わりにしないと、俺を探しに来るなあ。 「バタ」 「ん?」 「雄一郎にもチビ久にも、釘はさしといたからさ、今夜はほどほどに家に帰りなよ」 コーヒーカップをパレットに持ち替えて、卓美はキャンバスから目を離さずに淡々と話す。 「お前、ちゃんと話してないだろ」 「話したよ」 「雄一郎だけだろ。チビ久は知らない感じがした」 図星は、困るよね。 俺は卓美の言葉に、次のセリフを失ってしまうのだけど、何事もないように卓美は絵を描いている。 「卓美……その……」 「ん?」 「怒らない?」 「なにが?」 俺はこいつに甘えている、と知っている。 今までずっと甘えてきた。 これ以上甘えてどうするんだろうとは思う。 けれど、この方法が最良だと思う自分がいる。 「ええと、さ」 「どうせバタのことだからさ、自分が何をいったってやりたいようにするだろ」 怒るも怒らないもない。 そういって肩をすくめられるともう、はいそうですね、としかいえない。 「大ちゃん、貸してくれる?」 「それ、今更いうのか?」 「今までみたいなんじゃなくて、その……年単位になるんだけど……」 ぱたり。 静かに、卓美が筆をおいた。 「バタ」 「はい」 「それ、自分にどう答えろっていうんだ? 断るなんて選択肢はないんだろ? きっと、ここで勝手に返事して断っても、大介はお前をの手助けする方を選ぶよ」 「ごめん」 大ちゃんというのは、三谷大介みたに だいすけという、俺の秘書。 家族ぐるみの付き合いで、代々、恵畑家のフォローをしてくれているので、大介は学生時代から俺についてくれている。 俺が生徒会長の時は、副会長をしてくれていた。 そして、卓美の恋人だ。 お互いが少ない時間をやりくりして、お互いを大事にしているのを知っていて、俺はずっと大介をそばに置いている。 俺は、ダメな大人で。 母の命を犠牲にして生まれてきた俺は、生きていてはいけないのに生かされている、そう思っていた。 くだらない思い込みを覆したのは、歳の離れた弟。 よしくんは俺にとって、何物にも代えがたい大事な存在なんだ。 だからよしくんの望むことなら、俺は、俺が不本意でも、かなえてやりたいと思う。 教師である雄一郎と付き合うことだって、よしくんが雄一郎を好きなら、と思った。 卒業式に派手なパフォーマンスをやらかすことだって、よしくんが喜ぶと思ったから邪魔はしなかった。 ペナルティは大人が引き受ければいい。 けれどそのために、友人とその恋人を巻き込んでいる。 雄一郎はいい。 自分で選んで納得して起こした行動だ、そのあとのことも納得しているだろう。 ほとぼりが冷めるまで、学校での教職を解いて、語学研修という名目で日本から出すことにした。 よしくんも同じ先に留学させる。 大介の手を借りて、手続きを済ませている。 俺は管理不行き届きを問われるだろうから、引責でこの学校を離れて、春からは別の学校に移る。 けれど。 「ほら、バタ」 卓美は変わらない。 静かなままで、俺に向かって絵を向けた。 「絵具乾いたら、もってっていいよ」 「桜?」 「桜は花束にはできないから、これで勘弁な」 よく見るソメイヨシノより濃い薄紅色は、この学校の講堂前の桜を描いたからだろう。 「卒業、おめでとう、バタ」 「卓美? 卒業、って……俺?」 「大介のことは、完全に納得しているわけじゃないけど……ちゃんと返してくれるならいい。あとで二人で話すし」 白衣のポケットから煙草を取り出して、卓美は咥える。 「それよりお前が、変わったのが、よかったなと思う」 「変わった?」 「チビ久と離れる選択をした。ここを離れることを選んだ。大介を連れていくことにためらいを見せた。今までならなかったことだ。お前にとって、多分、なんか卒業みたいなもんをしたんだと、自分は思う」 だから、卒業祝いにこの絵をくれてやると、卓美は笑った。 ああ、そうか。 卒業おめでとう、諸君。 卒業おめでとう、よしくん。 そして。 ありがとう卓美。 卒業おめでとう、俺。 <END> 
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