家蜘蛛様

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 今年で十六歳になる刈谷朋彦(かりやともひこ)は、生まれてこのかた、自宅でゴキブリを見かけたことが無い。  その代わり、クモはよく見る。それも、様々な種類を。アシダカグモ、ハエトリグモ、チャスジハエトリ、ヒラタグモ…。父と結婚してから四半世紀経つ朋彦の母は、そんな環境下にあって慣れることなく、いまだに大のクモ嫌いで、「こんなクモが多い家、どうかしてる!」とたまに喚き散らしたりもするが、それでも、刈谷家ではクモを殺すことは御法度とされている。  何故なら、刈谷家の本家には、「家蜘蛛様(いえぐもさま)」が居るからだ。  朋彦が「家蜘蛛様」の姿を始めて見たのは、今から七年前、九歳の時だった。  朋彦には、十歳年上の和彦と言う兄がいる。その兄は、彼が小学校にあがる前から、刈谷家本家である伯父の家に毎月二回、新月と満月の夜に通っていた。  その兄が、十九になった年の春だった。彼が大学のある上京先から実家に戻り、さてこれから伯父の家に向かおうかという段になって、彼の母が弟の朋彦に、「今晩は、お兄ちゃんと一緒に伯父さんち行ってきなさい」としきりに勧めてきた。  兄は弟のお守りが厭で、弟はただ面倒で、兄弟共にその提案には乗り気でなかったが、家一番の権力者の意見には逆らえず、刈谷兄弟は二人で電車で三十分、バスで二十分の刈谷家本家に向かった。  本家の開けっ放しの門を通り過ぎ、鍵のかかっていない玄関をくぐった兄弟二人を、伯父夫婦は暖かく迎え入れ、男子向けのカロリー高めな夕食でもてなしてくれた。  腹が十二分に満たされた朋彦がうとうとし始めた夜九時、兄の和彦は不意に立ち上がり「じゃあ、そろそろ行ってきます」と伯父夫婦にそれだけ言って、居間から姿を消した。それを特に気にもせず、朋彦は伯母から渡された二つ折りの座布団を枕に畳の上でごろごろ寝っ転がっていたが、しばらくして、廊下からドタドタと走って来る大きな足音が聞こえてきた。  バンッと、居間の障子を開け放した和彦は、顔を真っ青にしていた。 「伯父さん、『家蜘蛛様』がいないっ!!」  ビールで顔を真っ赤にしていた伯父は、意外と酔ってはいなかったのか、すぐにすっくと立ち上がると、敷居を跨いで廊下に出た。だが、四、五歩歩いたところで廊下を引き返し、畳から半分身を起こして様子を見ていた朋彦に声を掛けた。 「朋彦君も、一緒に来て」 「なんで、朋彦を…」  すかさず和彦が怪訝な顔で伯父に聞いたが、伯父は「まぁ、ね」としか返さなかった。  早足の兄と伯父の背中を追い駆け朋彦が辿り着いたのは、伯父の家の庭の隅にある、母屋よりも確実に古い時代に建てられたのだろう離れ屋だった。  兄は障子に手をかけると一旦後ろを振り返り、伯父と頷き合った後、障子を目一杯に開けた。三人の居る場所から二メートルほど先、電気のない暗い部屋の床にぽつんと燭台がひとつ置かれ、畳と土壁とを照らし出していた。 「……私は元々、とうの昔っから見えないわけだが、和彦君、本当に家蜘蛛様は見当たらないのかい?」 「うん。部屋の中もだけど、念の為、この家の裏も見た。声掛けても、返事もないし…」  自分が、何かの間違えを犯したのだろうか。和彦が頭を抱えた方の腕とは逆の服の袖を、弟が引っ張った。 「なんだよっ」 「あの人、誰?部屋の奥に居る人。なんか、じっとこっち、見てるんだけど」  和彦は小声で訴える弟の顔をまじまじと見下ろし、横にいた伯父と顔を見合わせ、そうして最後に、部屋の奥を見て呟いた。 「どういうことだよ」  伯父は、兄を挟んだ場所から朋彦に告げた。 「あの方が、『家蜘蛛様』だよ」 「じゃあ、そろそろ行ってきます」  テレビの中の司会者が「また来週」と八時台のクイズ番組を締めたところで、朋彦は座卓の前から立ち上がった。それまで胡坐を掻いていた伯父が脚を正し、正座で「よろしくお願いします」と頭を下げるのに深めの会釈を返すと、朋彦は居間を出て、月に二回のお勤めに向かった。  刈谷家に生を受けた少年たちには、代々続く役目がある。それは、「家蜘蛛様」が住む、本家の庭の北東にある離れ屋の、掃除をすることだ。  その掃除は、一本の蝋燭の灯りのもと、新月と満月の夜に行われる。新月の暗い夜には、部屋の手前側。満月の明るい夜には、大抵はそちらに家蜘蛛様が居るのだが、部屋の奥まった場所を掃除する。  夜に、蝋燭の灯りたった一つで掃除というのは、大変に非合理的で、朋彦も掃除係になりたての頃早々に、どうせ掃除させられるなら昼間にやらせてくれと離れ屋の主に抗議した。家蜘蛛様曰く、朝昼は寝ているから掃除をされては落ち着かないとのことだったが、付き合いが長くなった今、朋彦が思うに、本当の理由は自分の姿をあまり見られたくないということかもしれない。  離れ屋へと続く渡り廊下の手前、朋彦は母屋の物置から風防付きの燭台と、掃除用具一式が入ったバケツを取り出した。そうして、梅松桜の間を通る拭きっ晒しの渡り廊下を、蝋燭の灯りをゆらゆらさせ、キシキシ床板を鳴らしながら渡りきると、離れ屋のすぐ前で、声を張り上げ挨拶をした。 「土蜘蛛様、今晩は。掃除に来ました」  二、三秒後に、地を這うように低い男の声が返ってきた。 「おお、入れ入れ」  朋彦が障子を最後まで開け放すと、部屋の手前側が青白く月光で照らし出された。今日は、満月。部屋の中、より暗い奥側を掃除する日だ。 「眩しいなぁ。もう少し障子を開ける幅を狭くしてくれても、いいんじゃないか?」 「こっちは暗い中で電気もなしに掃除なんて、かなり無理して譲ってやってるんだから。これ以上の我儘、言わない!」  朋彦は部屋の主に背を向け、ピンクのきれがついたハタキを使って、鴨居に積もった埃を落とし始めた。「上から下へ」。そんな掃除の基本を朋彦に叩き込んだのは、親でも教師でもなく、親戚の家に憑りついているこの妖怪だった。だが、この妖怪、自分のことを神様だと思っているらしく、妖怪呼ばわりされることを殊更に嫌がる。ちなみにご利益は、ゴキブリをはじめとする害虫除け。加えて、最近では消毒の効能も謳い出し、「ここの一族が誰一人、流行病に罹っていないのは、俺のお陰だ」と鼻を膨らませて言っているが、朋彦はその辺りに関しては、話半分以下にしか聞いていない。 「なぁ、朋彦。最近、どうだ?何かあったか?」  離れ屋の掃除のほかに、刈谷家の少年たちにはもう一つの役目がある。それは、家蜘蛛様の話し相手になってやることだ。むしろ、本当はそちらの方を家蜘蛛様は必要としているのかもしれない。しかし、そういったことを尋ねでもしたら、途端に臍を曲げられそうなので、ちゃんと聞いたことはない。 「そうだなぁ。あ、友達が猫、飼い始めた。それでこの間、撫でさせてもらった。サバトラの雄。凄い警戒されて、すぐに逃げられちゃったけど」 「あーあー、猫の話なんかクモにするんじゃない。背中が寒くなってくる。他に、なんかないのか?」  家蜘蛛様は、大抵こちらが履き掃除やら拭き掃除やらをしている時に、話をしたがる。長い付き合いの間柄であっても、正面から姿を見られるのは避けたいらしい。そんな家蜘蛛様の姿だが、朋彦は蝋燭の灯りの向こうに、ぼんやりとしか見たことが無い。だが、巨大な蜘蛛、とかではなく、一見して和装の若い男だ。肌は、灰褐色。顔立ちは精悍で上品さには欠けるが歪みもなく、同じ男から見てもなかなかのイケメンだ。長く垂らしたバサバサに広がった長い髪は、肌と似た色の中に白や黒がちらほら見える。肩幅の広い上半身には白衣を纏い、下は暗褐色の袴を履いている。  だが、その袴の膨らんだ形が、どうにもおかしい。人間が胡坐や正座をしている輪郭ではないのだ。気になった朋彦が中がどうなっているのか家蜘蛛様に直接聞いたこともあるが、「知らなくていいこともある」以上の答えは得られなかった。それでも気になり、伯父の前で「ちょっとめくって中を見てみようか」などと口走った時には、伯父から先祖の中には家蜘蛛様の袴の中を見たばかりに三年寝込んだ者もあったらしいと窘められ、それ以来、朋彦は極力あまり気にしない様にしている。多分、相当にグロテスクなのだ。 「猫以外の最近のことかぁ。そうだなぁ…」  畳の目に沿って雑巾を滑らせていた朋彦は、ふっと、近頃、彼が通う男子校の生徒たちを最も騒がせている人物のことを思い浮かべた。 「そうそう、このあいだ、新しい保健室の先生が来たんだ。それが、若い女の先生で、結構美人。急に体調不良起こすヤツとか増えちゃって、そのことで朝会で校長が説教までして。それで、その先生なんだけど…」  そこまで喋ってから、朋彦はしまったと口を噤んだ。  家蜘蛛様が最も嫌いなもの。それは、猫ではない。女性だ。それに関しては、彼が憑りついているこの本家の敷地内に、そして、朋彦の住む家にもメスのクモを全く見かけないことでも確かで、刈谷家では家蜘蛛様の前で親族以外の女性の話をすることは、一切禁止されていた。だというのに、男子高校に入って以来、めっきり女性と縁遠くなっていた朋彦は、すっかり油断してしまっていた。  畳から顔を上げた朋彦は、恐る恐る家蜘蛛様の様子を窺った。暗闇のかかった場所にいる家蜘蛛様の表情を確認することは、不可能だった。しかし、彼は彼の周辺を取り囲む空気に、はっきりと緊張を張り巡らしていた。  朋彦は俯き、あとはもうただ無言で畳の拭き掃除を続けた。雑巾が畳を撫でる音、雑巾を絞る時の水音。そんなものばかりが物の無い十畳程度の部屋に響き渡り、朋彦はただただ居た堪れなかった。 「その女の」  ふいに、朋彦が出す物音にも掻き消されそうな小さな声で、家蜘蛛様が聞いてきた。 「その女の名前は?」 「……池野(いけの)先生。下の名前は、忘れました」  そう朋彦が言い終えるか終えないかの間に、家蜘蛛様はそろそろと部屋の最奥に隠れてしまい、朋彦が掃除を終えるまでそのままだった。
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