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一週間後、下弦の月が浮かぶ晩に、前代未聞のことが起きた。朋彦の家に、ゴキブリが出たのだ。
ギャーギャー叫びながら殺虫剤を振り撒く母を横目に、朋彦は本家の伯父に電話をかけた。詳しいことは、話せなかった。ただ自分にはもう、土蜘蛛様の側にいる資格がないかもしれないとだけ、半分泣き気味に伝えた。伯父は、ただとにかく落ち着くよう、朋彦をなだめた。
「人間とは違うからね。あの方なりに、何かあるのかもしれない」
そうして、次の新月の夜にも必ず本家に来るようにと、それだけは朋彦に約束させた。
月のない暗い空の下、朋彦は内心の緊張を隠し、いつも通りに離れ屋の前で声を張り上げた。
「土蜘蛛様、今晩は。掃除に来ました」
数十秒待っても、返事はなかった。朋彦は一言、「入りますと」声を掛け障子を開けると、無言で掃除をし始めた。
ハタキで埃を落とし、箒で畳の目にそって掃き清め、そうして、バケツの水で雑巾を濡らしたところで、半月振りに土蜘蛛様の声を聴いた。
「なぁ、朋彦よ」
朋彦は、次に土蜘蛛様に会う時にどんな言葉を浴びせられるのだろうと、少なからず怯えていた。だが、実際に久し振りに聞いた土蜘蛛様の声は弱々しく頼りなく、朋彦は諸々の事情も忘れ、純粋に心配してしまった。
「どうしたの?」
「ああ。なにか最近、力が出なくてなぁ。お前の家の方は大丈夫か?この頃、クモ共に言うことをきかせることも上手くできなくてな」
ゴキブリが出たよ、とは伝えられなかった。
「どうして…どうしたの?なにか足りないものとか、必要な物とか…」
「そういうんじゃない。理由は、見当がついてる。原因は恐らく、いや、確実に、……池野って名前の女だよ」
朋彦はぎゅうっと雑巾を握りしめた。
「やっぱり、俺が女の人の名前なんて言ったから」
「勘違いするな。そんなことで力が無くなるなら、何百年も口が軽くて無神経なガキ共に掃除の世話なんかさせられるか。そうじゃなくてな、お前の話を聞く前から、女のことは知っていたんだ。そうだな、今日は掃除はもういいから、ちょっとこっち来い」
暗がりからにょっきり生えた腕が、朋彦を手招きした。朋彦は濡れた手を履いているデニムで拭くと、部屋の奥に進み、家蜘蛛様の真向かいに正座した。
「二ヶ月くらい前だ。裏のアパートに女が入居した。お前の伯父さんは今まで女の入居を断ってたんだが、職場に近い場所で他に良い貸家がないってんで貸してやったらしい。そのあたりの話は事前に諸々聞かされてたし、俺も特段、気にしていなかったんだ」
「それがな、引っ越し屋がきて、いよいよ女が越してきてから、急に俺の身体が言うことをきかなくなってきた。今まで使ってきたクモ共も好き勝手するようになって、どうもおかしい、あの女のせいじゃないかと、俺はそこの雨戸から隙見して、塀の向こうに引っ越してきたっていう女を待ち構えた。そうして、ある朝、お前の学校に出かける為だろうな、アパートから出てきた女を見た。それで、すぐわかった。あの女は、俺を喰ったやつだ」
朋彦の頭に、童顔で女子高生にしか見えない白衣の池野先生が、口の端に蜘蛛の脚を覗かせながらムシャムシャ咀嚼する映像が流れた。
「……違うぞ。あの女は昔、クモだったんだ」
「え、家蜘蛛様と同類?」
「同類っていうかなぁ。なぁ、朋彦よ。俺はどうして俺になったと思う?」
「どうって……もしかして、齢二十を超えたクモが変化してとか?」
「猫又じゃあるまいし。そうじゃなくて、そもそも俺はクモの怨念の塊だ。子孫を残す前にメスグモに共食いされたオスグモたちの無念の集合体なんだ」
どうりで、女嫌いなわけだ。
「俺も大抵忘れてたけどな。で、あの池野って女がな、前世だが前々々世だか、いつだかは知らないが、メスグモだった時に、俺の元になってる一匹のクモを喰ったんだな。でな、俺の中の喰われたオスグモが、あの女の存在を感じるだけで委縮しちまうのよ。で、俺もそれにつられてなぁ」
朋彦はもう、咄嗟になんとかしてやりたいと思い、そして、自分が家蜘蛛様にしてやれることは、はっきりとしていると思われた。
「伯父さんにその話、するよ。池野先生には悪いけど、アパートから出てって貰おう」
「それはやめろ」
家蜘蛛様はそれまでの情けない同情を誘う口調から一転、きっぱりと断った。
「俺はな、自分が情けない。こんな、何百年もこうして年月を過ごしてきたというのに、たった一人、女が現われただけで力を失うなんて。でもな、そもそも、その程度の存在だったとも思うようになってきたんだ。それにしても、こんな風に弱った俺と比べて、あの池野と言う女の逞しいことよ。毎晩のように吐かれるオスグモの呪詛もなんのその、爆睡して次の朝には自転車漕いで元気に出掛けて行きやがる。そうだな。俺なんかはもう、消えゆくべき存在なのだろう」
そこまで話すと、土蜘蛛様は長い長い、溜め息を吐いた。
「朋彦よ、お前はもう、ここに来なくていい。お前の伯父にも伝えておけ。ここを壊して構わないと。ああ、疲れた。俺はもう今晩は寝るよ。もう掃除はいいから、出て行きなさい」
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