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養護教諭としてこの男子校にやって来てから、二ヶ月。池野朱美(あけみ)は最大のピンチを迎えていた。
体調不良を訴え、保健室にやって来た生徒が握るジャムの空き瓶。その中に、朱美がこの世で最も嫌悪するアレが入っていたのだ。
「じゃあ、体温測って」
朱美は笑顔の仮面を被り、ベッドに腰掛ける刈谷と言う二年生の生徒に体温計を手渡した。そうして、頭の中では、何故、男子高生がクモを入れた瓶を携帯しているのか、脳をフル回転させ考えていた。
昆虫好きか?いや、クモは虫ではない。節足動物好き?ピンポイントでクモ目好き?その気持ち、全く理解不能。でも、それならば、それでいい。よくないのは、朱美のクモ嫌いを知っていて、あえてクモを保健室に持ち込んだという可能性。だとしたら、クモ嫌いの件、どこからバレた?この学校で、そんな自己申告していない。態度に出ていた?いや、そんな場面はなかったはず・SNSか?もしかして、私、過去を探られている?だとして、どこの誰が、自分の極秘事項を無断公開しやがった?いやいや、今考えるべきは、今後の対応。ただでさえ若い自分をなめてくるDKたちに、最大の弱点を知られたとして、養護教諭としてのベストな行動とは、なんだ?
「先生、コレ、なんですけど」
しまった。まず、なんでそんなものを学校に、そして保健室に持ち込んだのか、聞くのが自然な対応だった。私、鎌かけられた?そして、まんまと嵌まった?!
「だ、だめでしょ!動物持ち込んじゃっ!」
「すみません。でも、こいつ見てると、なんか落ち着くんです。ここでこうして見ててもいいですか?」
だめ!というのが本音だが、教育者として、生徒の興味の対象を全面否定することは避けたかった。
「い、いいけど、熱は測って」
「はい」
刈谷少年は大人しく言われた通りに、体温計を緩めたシャツの襟から脇に挟んだ。朱美はそれを見届けると、気を紛らわせるべく、書きかけの報告書にとりかかった。アレがすぐ傍に居る状況では、全く集中できなかったが。
体温計のブザー音が鳴った。
「三十六度二分です」
「平熱ね」
「先生、クモ、嫌いなんですか?」
おう、蒸し返してくるか。
「好きではないかな?人並み程度に」
「でも、クモって益虫なんですよ。ゴキとか食べてくれるし」
そういうところも、かえって嫌いなんですけど。
「オスなんて、特に健気なんです。交尾の前や後にメスに共喰いされるかもしれないのに、子孫を残そうと果敢にメスに近付いていくんです。とんでもなく、勇気があると思いませんか?」
学生時代の朱美であれば、どうでもいいから早く手元の気味の悪いそれをしまえと、問答無用で怒鳴り散らしていたことだろう。しかし、朱美は今、養護教諭。この道を選んだのは子供たちを見守り、心身のケアをしていく為だ。そう、目を輝かせる生徒の…への愛を否定なんて、できない。
「そうだね。節足動物だって、一生懸命生きてるんだよね。私も、立派だと思うな」
「弱いの知ってて酒を飲ますたぁ、俺を殺すつもりか!」
新月でも満月でもない夜に本家の離れ屋に入った朋彦は、ジャム瓶の中に監禁していたクモを、畳の床に解放した。クモはサササと畳を這って部屋の暗がりに移動すると、一気にその存在を膨張させ、朋彦を一喝した。
「元気になったじゃない!」
「おいっ!」
「ふはっ!単純だなぁ。女の人にちょっと褒められただけで、元気を取り戻すなんて!」
朋彦は可笑しくて、そして安堵して、畳の上にうずくまり涙を流して爆笑した。朋彦の様子に面喰らった家蜘蛛様は、それでも怒りは収まらないのかイライラしている様子を保って言った。
「別に、俺がどうこうじゃないからな。俺の中にいたあの女に喰われたオスグモが、俺の中からいなくなっただけだ」
「はは、じゃあ、好きだった女の人に『立派』とか言われたたったそれだけで、昇天しちゃったわけだ」
「朋彦、お前なぁ、誰かに本気で惚れたことないだろう」
家蜘蛛様の口調が打って変わって、年長者の上から目線になった。
「……あるよ」
「小学生の時の、クラスのアイドル美咲ちゃんか?ハハハッ、ガキだね。そんなんじゃ、お前がここの掃除係を卒業するのは当分先になりそうだなぁ」
思春期の男子的に縁起でもないことを言われた朋彦は、これだけを思った。心配して、損した!
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