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「さ、さいしょは。ただの絵、だったのに。あいつ。いきなり、うち、入ってきて」
体育座りをしたまま、浩史の全身が小刻みに震えだした。お盆が、手から落ちて耳障りな音をたてる。
「ぼく、うまく、しゃ、しゃべれないから、お母さんが、ハイシャさん行こうねって。そしたら、あいつが、お母さんを」
「おい浩史」
「お母さんを、ぐしゃって」
肩に触れようとした瞬間、軽快なメロディーが耳を突いた。
首をひねって後ろを見る。なんの音だ。
寝室だろうか、ドアにわずかな隙間が空いていて、その部屋から鳴り響いているのがわかった。
それがスマホの着信音だと理解したのは、かすかにバイブレーションの音も聞こえたときだった。
立ち上がって、吸い寄せられるようにドアに近づいた。
「オキノせんせい」
名前を呼ばれて振り返ると、訴えかけるような眼差しで浩史が俺を見ている。その目は充血し、額には脂汗が浮かんでいた。
「浩史、お前は横になってなさい。熱がぶり返したら大変だからな」
できるだけ優しく声をかけたが、浩史はもごもごと口元を不自然に動かしている。なにかを俺に伝えようとしているが、うまく言葉にできないのだろうか。
着信音は鳴り続けている。俺はそっとドアを開いて、中をのぞいた。真っ暗な部屋の中央で、液晶画面が小さく光っているのが視界に入る。
肩の緊張が解けた。てっきり誰か隠れていると思ったからだ。スマホに充電コードが挿さったままになっていることから、単純に両親のどちらかが置き忘れて外出したのだろう。
いや、まてよ。
俺の中で別の疑問が生じた。
なぜ置いたままなんだ。
仮にスマホを忘れて家を出たとしても、普通は取りに戻らないだろうか。数日家を空ける予定だとしたら尚更だ。
思わず、部屋に足を踏み入れた。小さな液晶画面には、『パート先:西丸マーケット』という文字が表示されている。ということは、これは母親のスマホか。
ようやく着信が切れた。俺は少し迷ってからスマホに手を伸ばし、待ち受け画面をスライドして着信数を確認した。パートの職場から数十件不在の着信が入っている。俺が昨日架けた履歴もあった。
何気なくベッドに視線を落とした俺は、目を見張った。別のスマホが落ちていたからだ。
こちらも多くの着信履歴が残っている。ほとんどが『会社』や、おそらく上司のものらしい携帯番号からだった。父親のスマホに違いない。
嫌な想像が膨らんだ。というより、今まで考えないように蓋をしていたものが、ついにあふれ出てしまったと言っていい。
そもそも、浩史の親は児童放棄をしていたのか?
本当はなにかの事件に巻き込まれたのではないか?
すん、と強烈な臭気が鼻をかすめた。
腐った泥水の臭い。これは、昨日嗅いだものと同じものだった。
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