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首筋に鳥肌が立った。胸に圧迫感を覚えて、吐き気がこみあげる。なんだ、いったい。部屋全体が暗く歪み、温度も一気に下がったかのように寒い。
足元を見ると、何者かが背後に立っているのが影でわかった。浩史だろうか。声をかけようとしたが喉がひくつく。浩史にしては、頭の部分が異様に伸びている。
――うちに、ペンペマがいます。
昨日の会話がフラッシュバックする。ありえない。そんな、非科学的なこと。
影が、ゆらりと動いた。後ろにいるなにかが部屋に入ってきたのだ。
歯ががちがちと鳴る。すぐ背後で、そいつの息が首筋を撫でる。なぜ俺はこんな家にのこのこ訪れたのか。死を覚悟して目をぎゅっと瞑ると、すぐ近くて間の抜けたメロディーが聞こえた。
今度は、父親の方の着信が鳴ったのだ。
呪縛が解けたかのように、俺は勢いよく後ろを振り返った。
そこにいたのは、浩史だった。
目に涙を浮かべながら、俺に言った。
「オキノせんせい、はやくにげて」
どの道を走ってきたのか覚えていない。
あのあと、俺は浩史を抱きかかえて家を飛び出すと、無我夢中で逃げた。視界からアパートが完全に見えなくなっても安心できず、これ以上は腹が破裂するという寸前になってから、ようやく立ち止まれた。
「浩史……大丈夫、か」
膝を折って息を整える。声を出すのもやっとだった。こんなに走ったのは何年ぶりだ。教師になってから、ろくに運動していなかったことを後悔した。
「オキノせんせい。ペンペマが」
返事の代わりに、浩史が言った。
「うちにペンペマがいます」
「ああ……わかってる」
たしかにそいつはいた。あの家で感じた異様な気配、背中の毛が逆立つ不快感、そしておぞましい臭い。幽霊の類を信じない俺でも、あそこに人ならざる存在がいたことは認めざるを得なかった。
「だが、ここまで逃げれば安全だ」
俺は背後を振り返る。閑静な住宅街が広がっているだけで、なにかが追ってくる様子はない。
「オキノせんせい」
浩史が、俺の袖を引っ張った。
「なんだ」
「うちに、ペンペマが」
「だから、もう信じたって。最初は疑ってすまなかった。とにかく、先生と警察に行こう。行ってどうにかなるかわかんないけど……浩史の母さんと父さんの捜索願いを出してもらわないと」
あいつに食われていたのなら、意味のない行動だろう。だが他にどうするべきなのか思いつかなかった。戻ってあの化け物と対峙するなんて勇気は、俺にはない。
また袖を引っ張られた。若干苛立ちながら浩史を見下ろすと、泣きそうな顔で俺を見て首を何度も横に振っている。いやいやでもするように。
なんだ? なにを言いたいんだ。
「ペンペマが」目から涙をぽろぽろとこぼしながら、浩史が言う。「うちに、うちのなかに」
小刻みに震える浩史の口。本来のぞくはずの歯や舌が、真っ黒く塗りつぶされていることに今更ながら気がついた。
いや、塗りつぶされているのではない。
そこになにかがいた。
「う」
「う」
「く」
「う」
「く」
浩史が口をすぼめて、必死に何かを伝えようと声を出している。そもそも、なぜ小テストの紙にわかりにくいメッセージを残したのか。なぜ、最初から浩史は俺に直接説明しなかったのか。多くの疑問が脳内で絡み合う。
またあの臭いが漂ってきた。浩史の口の中にいるなにかと目が合う。
言わなかったんじゃない。
言わされなかったのだ。
こいつは最初から、ここに潜んでいたから。
「くちに、ペンペマがいまああああ」
浩史の口から、真っ黒な手が伸びてきた。
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