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プロローグ
『特別』という言葉を美化するな。
いつだったか、彼女とそんな話をした。
特別とは、普通ではないということだ。
異質で、異端な存在だということだ。
そして常識という枠組みから外れた、自分の尺度で測れないものに対して、人はひどく冷たい。
だから……特別は孤独なんですよ。
「ばっかだなあ、真崎君は」
同級生の彼女は――四季宮茜は。
僕の机の上に腰かけて、すらりとした足を揺らしながら言った。
「特別ってスペシャルなんだよ? ドラマもアニメもハンバーガーも、ランチもディナーも必殺技も、なんだってスペシャルな方がいいに決まってるじゃん」
きっと、これが僕たちだった。
この会話に、僕と彼女のすべてが凝縮されていた。
傾いた太陽が、強烈な橙色で教室の中を染め上げていた。
誰かの足跡がついたコンクリートの白い壁も。
投げやりに消されたチョークの跡が残った黒板も。
端がほつれた、やわらかく風を受けるカーテンも。
そのすべてが明度を上げていて――どこか幻想的な空間を作り出していた。
刹那。
目の奥で線香花火がはぜるような感覚がして、四季宮さんが僕の飲みかけのジュースに口をつける光景を視た。
だから僕はペットボトルの中身を飲み干して、空っぽにした。
「あー、それ飲もうと思ってたのに」
知ってます。
だから先回りして全部飲んだんです。
「けちー」
おかしな話だ。
この100%オレンジジュースは僕が買ったもので、100%僕のものなのに。
「やっぱり便利だよねー、真崎君のそれ」
「……」
六十秒先の未来が視える。
物心ついた頃には既に僕に宿っていた、不可思議な能力。
便宜上、僕はこれを「幻視」と呼んでいた。
現実の世界を塗りつぶし、僕の視界を遮る「やがて訪れるはず」の未来。
未来の光景が視えるのは一瞬の時もあるし、もっと長い時もある。
厄介なことに幻視が起こるタイミングはランダムで、僕の意思では制御できない。
こんな能力……邪魔なだけですよ。
「そうかなー? ザ・スペシャルって感じで、いいと思うけどなー」
あっけらかんと笑った彼女の心情を、僕は理解できなかった。
うん、と四季宮さんが伸びをすると、カーディガンの袖がめくれて、ほっそりとした手首があらわになる。
足と同様に真っ白な素肌には、しかし生々しい赤い痕がくっきりと残っていた。
それが手錠の痕であることを、もう僕は知っている。
彼女は夢遊病を患っていた。
それも、ただの夢遊病ではない。
自傷癖つきの夢遊病だ。
彼女は眠りにつくと、勝手に自分の命を絶とうとする。
ナイフを自分の腕に突き刺そうとしたり。
部屋の窓から飛び出そうとしたり。
ロープで首を、吊ろうとしたり。
あの手この手で、勝手に、彼女の意思とは無関係に死に向かおうとする。
だから彼女は、寝る時は必ず両手に手錠をつけていて。
自分で自分を殺さないように、自分自身を縛り付けている。
自傷癖つきの夢遊病。
彼女だけが持つ「特別」。彼女だけの「異端」。
そんな彼女が、特別なことは素敵なのだと言い切ってしまうから。
僕は口をつぐむ。
「あー、いま何か言いかけたでしょ」
妙に鋭いんだ、この人は。
特に何もとつぶやき、首を横に振る。
「うそつき」
僕はもう大人ですから。
なんでもかんでも、思ったことを全部口にしたりはしないんです。
「うーん? 本音を言わないことが、大人になるってことなのかな?」
僕の言葉を受けて、四季宮さんは楽しそうに語り出した。
……また始まった。
「私はね、真崎君。本音を言うタイミングを選べるようになって、人は初めて、大人になると思うんだよ」
哲学というか、矜持というか。
生き方というか、在り方というか。
四季宮さんはたまに、こういう答えのなさそうな、回りくどい話をする。
「何かを自分の意志で選択する。それが、大人になるってことなんじゃないかな?」
「……」
彼女の言葉は、やはり分かるようで分からない。
なのにそのくせ、妙に耳に残る。
彼女が口にした言葉は、ふとした瞬間に脳内で反響する。
「時に真崎君、もっと大きな声で喋りなよ」
ずびしっとシャーペンの尻を向けられて、触られたわけでもないのに、僕は額をさすった。
「さっきから、もそもそもそもそと、牛さんかな? 牛さんなのかな? 反芻で忙しくて、ろくすっぽ声が出ないのかな?」
……失礼な。僕は人間ですよ。
胃は一つしかありませんし、反芻もしません。
「ほんとかなー? あやしいなー?」
ゆらゆらと大げさに左右に揺れながら、彼女が近づいて来る。
身に危険を感じ、後ろに逃げようとした時には――もう遅かった。
「口の中をー、みせろー!」
一切のためらいなく、口の中に両手が突っ込まれそうになって、僕はたまらず声を上げた。
「ちょっ……まっ……! やめて! やめてください!」
「問答無用ー!」
いたい! 痛いって! いや、力強いなこの人!
チンパンジーの末裔か何かなのか!?
「だーれががチンパンジーだ!」
「な、なんで分かったんですか?」
「顔に書いてあったもん!」
「そんなわけないでしょう!」
下らないやり取りを何往復かすると、彼女はようやく僕から離れた。
「よっし、ようやく声でたね」
ふんすっ、と両手を腰に当てて満足げに息をつく四季宮さん。
「ちゃぁんと声を張らないと、せっかくの真崎君の面白いコメントが聞こえないでしょ?」
「べ、別に面白いコメントなんてしてませんよ……」
僕は思わず視線を下げた。
出来損ないの言葉たちが、ぽろぽろと口からこぼれ落ちていく。
「むしろ聞こえない方がいいっていうかそっちの方が安心するっていうかあんまり目立ちたくないですし何言ってるか分からないくらいの方がいっそのこと清々しいかなって……」
「こーらっ」
僕の鼻先を、細い指先がとんと叩いた。
「また早口になってるー」
「……仕方がないじゃないですか」
僕は声が小さい。
おまけにひどく早口だ。
人と会話するのは……苦手だ。
「いーい? 真崎君。日本語にはね、句読点っていういう素晴らしい技法があるんだよ」
そう言うと彼女は、黒板に何やら書き始めた。
【あなたが好きです】
「さ、読んで」
「嫌です」
「そんなの書いてないけど」
「そういう意味じゃないです」
真崎君は手がかかるなあ、と四季宮さんは黒板に文字を足す。
【あなたが、好きです。】
【あなたが好き、です。】
「ほら、全然違うでしょ?」
「そうでしょうか」
「前者は強い意志を、後者は恥じらいを感じない?」
まあ、言われてみればそんな気もする。
「要するにね、真崎君。君はもっと、自分の言葉に句読点を打って、しっかり、はっきり、相手に自分の考えを伝えるべきだよ」
言葉に句読点を打って話す。
自分の主張を相手に伝える。
それはたしかに、大切なことなのだろう。
けれど。
「……無理ですよ」
「どうして?」
「何かを主張するのは、怖い……ですから」
「そっかあ」
一拍置いて、彼女は言う。
差し込む夕日より眩しい笑顔を浮かべて。
「じゃあまずは、私とたくさん話して練習しなくちゃね」
……。
…………。
ああ――今でも思う。
楽しかった。
彼女と過ごす時間は、楽しかった。
前向きな四季宮さんと一緒にいれば、自分も少し、下がった目線を上げられる気がした。
どうしようもなく「異端」な病を抱えてもなお、笑顔を絶やさない彼女といれば、どこか救われる気がした。
もっと彼女の笑顔を見たいと願って、彼女の傍にいる未来を夢想して、いつしか僕は、どうしようもないくらいに四季宮さんに心を奪われていた。
明るくて前向きで。
ひたむきで真っすぐで。
笑った時の声がとても耳に、心地よくて。
そんな彼女が。
そんな四季宮茜が。
今、僕の目の前で死のうとしている。
ビルの屋上、フェンスの外側。
圧倒的な死の匂いを振りまいて、あの日の教室と同じ、むせかえるような橙色を背に受けて、彼女はそこに立っていた。
僕は見上げている。
名前も知らない、有象無象が行きかう雑踏の中から。
決して手が届かない場所にいる彼女を。
見上げる僕の視界の中。
ふわりと。
四季宮さんの体が、一瞬宙に浮いて。
地面から伸びてきた、黒くて長い怪物の手に引きずり込まれるように、その速度を増していく。
いずれ訪れるかもしれない未来。
六十秒後の光景。
彼女の死を目の前にして。
彼女の死にざまを幻視して。
臆病で、ちっぽけで、非力な僕は――今、彼女のために何ができるだろうか?
※
少しだけ、話を戻そう。
自傷癖つきの夢遊病を患った特別な彼女と。
ほんの微かな未来が視える異端な僕。
二人が初めて言葉を交わし。
二人が秘密を共有し。
そして――僕たちが不覚にもキスをした、あの日まで。
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