76日前

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76日前

 疑問には思っていた。  彼女の自遊病について知っている僕が、プールに同伴するのは理解できるとして。  ならば四季宮さんは、自身の傷痕を、多くの人でにぎわうプールで晒せるのだろうかと。  先日、彼女の素肌を見たの僕としては「気にせず入ったらいいと思うよ」なんて無責任なセリフは口が裂けても言えなかった。  程度の差はあれ、ネガティブな注目の浴び方をしてしまうのは間違いない。  だからこそ僕が、四季宮さんはどうやってプールで遊ぶつもりなのかと、頭をひねっていたわけなのだけど。 「まさか、こうくるとはなあ……」  一足先にプールサイドについた僕は、誰もいないプールを眺めながらつぶやいた。  誰もいない。  今までも、そしてこれからも、今日、このプールには誰も来ない。  なぜなら貸し切りだから。  ……いやあ、力技だなあ。  お金持ちって言うのはこんなことまでできるんだなあ。  四季宮さん曰く「お母さんにお願いしたらあっさりOKしてもらえた!」とのことなのだけど、お願いの規模が大きすぎて言葉が出なかった。  改めてプールを眺める。  都内にある娯楽施設で、二十五メートルプールと飛び込み台、ジャグジー、それに小さなウォータースライダーなんかもついている。二人で過ごすには十分すぎるくらいに豪華だった。  季節は十月。  プールのハイシーズンはとうの昔に終わっているけれど、温水プールなので遊ぶのに支障はなさそうだった。 「真崎君、おっまたせー!」  更衣室の出口の方から四季宮さんの声がした。  僕は返事をしようと振り向いて――そして速攻で目をそらした。 「遅くなってごめんね。着替えるのに手間取っちゃってさー」 「いえ気にしないでください大丈夫なので」 「ありがと。ところでどう? 水着、似合ってるかな?」  もう一度ちらりと見て……やっぱり視線を逸らす。  先週のファッションショーの一件で、彼女の肌を見るのはだいぶ慣れたと思ったのだけど、どうやら甘かったらしい。  まず、ビキニだ。  それはもう、どうしようもなくビキニだ。  この時点で目に見える肌色の割合が多すぎてアウト。  おまけになんていうか……とても大きい。  あれか、着やせするタイプってやつか。  ふ、ふーん、あれってほんとに世の中に存在する概念だったんだ。  とにかく見た目が暴力的過ぎてツーアウト。  薄い水色を基調とし、濃い青色の花柄がついたビキニは、四季宮さんに大層似合っている。けれど、まじまじと視界に入れられるほど、僕はまだ女性の身体に慣れていないらしかった。  というわけでスリーアウトチェンジ。何がチェンジするのかは不明だ。たぶん、僕の理性が予備の物に切り替わるんだと思う。 「ふっふっふー。そういう反応をするときは合格のサインだって、私この前学んだもんねー」 「だったら聞かないでください……」 「えー。だって折角なら、声に出して言って欲しいんだもん」  無茶を言わないで欲しい。 「で、そういう真崎君は……」  僕の周りをぐるっと一周し、四季宮さんは笑った。 「もうちょっと鍛えた方がいいね」 「余計なお世話です……」  と、その時。  目の奥で線香花火が散った。  視界はセピア色に染まり、六十秒先の四季宮さんの姿が映り込む。  四季宮さんはぴょんぴょんとその場で跳ねたかと思うと、そのまま駆け出し、足から思いっきりプールへと飛び込んでいく。  たった数秒、それだけの光景。  なんてくだらない幻視だと、思わず苦笑いがこぼれる。  もちろん、こういう未来ばかりの方が、平和でいいんだけど。  とことこと僕の周りをうろついている四季宮さんは、ついさっき視た幻視の通り、今にもプールの中に駆け出して行ってしまいそうだった。 「四季宮さん」 「ん?」 「準備体操はしっかりしましょう、危ないので」  だから僕がそう釘をさすと、四季宮さんはちょっとばつの悪そうな顔をして、 「……視たんだ」 「お察しの通りです」  僕は肩をすくめた。  ※  家に呼ばれて以来、僕は四季宮さんとコミュニケーションを取るのに支障がないくらいには会話ができるようになっていた。  あの時、四季宮さんの家でファッションショーをしたことが、僕にも良い影響を与えているようだ。  そんなちょっとした変化もあって、僕は自分の幻視について、ここ数日で四季宮さんに説明が終えていた。 『えー、なにそれ超便利! うらやましー』  というのが、彼女の第一声。  僕は散々「そんな便利なものじゃない」「ちょっと邪魔なくらいだ」と口を酸っぱくして言ったのだけど、 『でも、ないよりはあった方が絶対いいでしょ?』 『なかったらなかったで、別に困らないです』 『むー。真崎君の幻視がなかったら、私は頭血まみれだったんですけどー?』 『それは……まあ、タイミングが良かったというか、悪かったというか……』 『ふーん?』  のぞき込むように僕の顔を見る四季宮さんから、逃れるように顔を背ける。 『と、とにかく……僕の幻視はそんな感じです』 『うん、よく分かったよ。話してくれて、ありがとね』 『いえ。僕も四季宮さんの話、聞きましたし……』 『あはは、そうだね。なんか、こうやって二人で特別な秘密を共有できるのって、ちょっと素敵だね』 「えいっ!」  物思いにふけっていた僕は、大量の水を顔に浴びて、現実に引き戻された。 「あはは! みずびたしー! そりゃそりゃぁ!」 「ちょ、やめ……っぷは」 「真崎君もやり返してよー。これじゃ、私がいじめてるみたいじゃん」 「いや、それは……」  言い返そうとした時、ぱちりと線香花火が散って、また幻視の光景が映る。  四季宮さんが飛びかかってきて、僕を水の中に押し倒す。  ただそれだけの短い光景。  これもまた平和で、肩の力が抜けるような幻視だった。 「今、なにか言いかけた?」 「いえ。女性に水をかける行為には、ちょっと抵抗があるなあと」 「ふーん。紳士なんだ」 「そういうわけじゃないですけど」  にんまりと四季宮さんが笑った。  ……来たか。 「そーゆー甘っちょろい考え方の子は――」  ざばっと水を切って、四季宮さんが動いた。  瞬間、僕は半歩身を引いて、 「戦場では生きていけないんだよ!」  体をくるりと反転させた。  目の前で四季宮さんの身体が思いっきり水の中に突っ込んでいく。  一体いつからここは戦場になったんだか……。  数秒後、浮かび上がってきた四季宮さんは、濡れた髪をかき上げながら言う。 「幻視はずるいよー!」 「……僕の意思ではどうしようもないので、ずるくはないかと」  その仕草がやけに色っぽく感じられて。  僕はまた、目線をそらした。 ※ 「ねえねえ、真崎君」  どこから持ってきたのか、やたらと大きなゴムボートを浮かべ、その上に寝そべりながら、四季宮さんが問うた。 「真崎君はさ、幻視があんまり好きじゃないの?」 「突然どうしたんですか?」 「いいからいいから」  まあ……隠すようなことでもないか。  少し考えた後、ゆっくりとゴムボートを引っ張りながら答える。 「そうですね。幻視のお陰で得したと思ったことがないので」 「なんの前触れもなく視えちゃうから?」 「まぁ、急に視えるとびっくりしますし」 「自分で視たいタイミングを選べないから?」 「せめて僕の意思でコントロールできればいいんですけどね」  同じような内容の話を、ついこの間もしたばかりだ。  いったい、急にどうしたのだろうと訝しんでいると、 「ほんとに?」 「え?」  思わず振り返ると、四季宮さんの澄んだ瞳と目が合った。 「得したと思ったことがない、だけ? 本当は、あったんじゃないの? 幻視を持っていて、損したと思ったことが」  思ったよりも近い距離に四季宮さんの顔があって、僕はたまらず視線を外そうとした。  なのに。  なぜか目を、そらせない。 「これは私の持論なんだけどね」  四季宮さんは、言う。 「人が何かを嫌いになる原因は、その何かを持っていて得をしなかった、からじゃなくて……損をしたからだと思うんだよ」 「損をしたから……」 「うん。だって得をしなかっただけなら、ただ無関心になるだけだもん」 「……どうして四季宮さんは、僕が幻視を嫌いだって思ったんですか?」 「だって、嫌いじゃなかったら」  ちゃんぷんちゃぷんと、水が跳ねる音がした。  それと同じくらいの音量で、四季宮さんはそっと、言葉を置くように言う。 「幻視について私に話すとき、あんなにつらそうな顔、しないんじゃないかな」 「……」  僕は。  僕はどんな顔をして、彼女に語っていたのだろうか。  幻視。  物心ついたころから僕に宿っていた、不可解な能力。  かつての僕は、それを万能な能力だと思っていて。  誰かを助けるために使えるのだと、信じて疑わなくて。  浅はかで。  軽率で。  向こう見ずで。  愚の骨頂で。  そうして生まれた、心の傷。トラウマ。 「ね。よかったら話してよ」  僕は―― 「私ね。君のこと、もっと知りたいんだ」  彼女の優しい声音に導かれるように、過去を語った。
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