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52日前
銀山成明という人物に出会った時、僕は世界の不条理さというものを、改めて感じることになった。
格の違いというものを、具現化して、人の形にして、それをまざまざと見せつけられている気分になった。
銀山成明は医者だった。
高身長だった。
スリムだった。
猫の目のように悪戯っぽく、犬のように人懐っこい瞳の中には、理知的な光が宿っていた。顔立ちは整っていた。仕立ての良い服を着こなしていた。身に着けている全ての物が高級そうで、全身から品の良さを感じた。
いや……違う、こうじゃない。
いくら言葉を並べ立てても、どの言葉も正鵠を射ているような気がしない。
ただ単純に、一言。
たった一言で言い表した方が、しっくりくる。
銀山成明は勝者だった。
おそらく何事においても、あらゆる勝負事や障害といった、人生の中で横たわっている困難を目の前にして、彼はことごとく勝ってきたのだろう。
勝負に負け、あるいはそもそもリングの上にすら立たなかった僕とは、対照的に。比較するのも、はばかられるほどに。
そう、思わされた。
「茜ちゃん。迎えに来たよ」
放課後、僕と四季宮さん、そして八さんの三人は、駅近くのファミレスに向かうべく、学校を後にしていた。
今日はそこで、四季宮さんの婚約者について、話を聞く予定だった。八さんもあの場にいたので、一緒に説明をしてくれることになっていたのだ。
けれど。
「近くに車を止めてある。家まで乗せて行ってあげるよ」
「銀山、さん……。どうしてここに……?」
四季宮さんが彼の名前を呼んだ瞬間。
僕はこの人が婚約者なのだということを、半ば本能的に察した。
「父さんたちからの呼び出しだよ。聞いてない?」
「私のところには、何も……」
「そうか。まあ、二人とも忙しいからね。伝え忘れたのかもしれない」
「あの、今日はこれから用事があって――」
四季宮さんの言葉を遮るように、男は首を横に振る。
「残念だけど重要な話があるらしくてね。今日は来てもらわないと困るんだ」
そうして、理知的な光をたたえた目を僕らに向けて、続ける。
「お友達かな? 初めまして、銀山成明といいます。申し訳ないんだけど、今日のところは予定をキャンセルしてもらえないかな?」
僕と八さんが何か言う前に、声をあげたのは四季宮さんだった。
「そ、そんな勝手な……!」
「勝手なのは父さんたちの方さ。そして君も、こういう事態には慣れた方がいい。僕も今日は、もともとあった予定を断って来てるんだよ」
「それは私とは、関係ないじゃないですか」
「茜ちゃん……それを今、僕に言われても困るよ。文句があるなら、直接、父さんたちに言った方が効果的だし、生産性もあるだろう? 僕の方が言いやすいし、責めやすい気持ちは分かるけどさ」
「せ、責めるなんて、そんなつもりじゃ……」
「ごめんごめん。少し、意地の悪い言い方だったね。とにかく、ここで僕たちだけで話をしていても、解決しない問題だと思わない?」
「それは……」
四季宮さんは終始、歯切れ悪く答えていた。
僕がこれまで四季宮さんに抱いていた印象は、自由、だった。
何事にも縛られず、死に至ろうとする病を相手取っても、明るく生きる。
ポジティブという名の翼を背中にはやして、大空を自由に飛び回る、そんなイメージ。
だけど今、四季宮さんは、まるで鎖に縛られているかのように、不自由そうに言葉をつないでいた。
やがて四季宮さんは、視線を地面に落としながらつぶやいた。
「分かりました……。先に駐車場に向かっていてください。私は少しだけ、二人に話があるので」
「了解、準備しておくよ」
それじゃあ。とさわやかな笑みを残して、銀山さんは去っていった。
すらりとした後ろ姿が曲がり角の向こうに消えると、四季宮さんは口を開いた。
「……ごめんね、急に。びっくり、させちゃったよね」
「やはー。話には聞いてたけど、実物は初めて見たなー。やっぱり、あの人が……?」
八さんの問いに、四季宮さんは頷いた。
「うん、私の婚約者。銀山成明さん。私のかかりつけの病院で働いてる、お医者さん」
そして四季宮さんは僕の方を向いた。
「今日、説明するって言ったのに、ごめんね。明日は大丈夫だと思うから、また放課後に――」
「いいですよ、気にしなくて」
僕は答える。
自然と、笑っていた。
脳裏にこびりついた、銀山さんの笑顔が離れなかった。
頬が、きちきちと引き攣る。
「そもそもわざわざ機会を作って説明をしてもらう方がおかしい話なんですよ。婚約者がいます、はいそうですかって、ただそれだけのやり取りで済む話じゃないですか。むしろ四季宮さんに無駄な時間を使わせずに済んでよかったって気持ちでいっぱいですよ」
「真崎君……」
止まらない。
「すごくいい人そうですね、なんだか安心しました。いや安心しましたなんて言う立場じゃないですよね、すみません。お医者さんでお金持ちでスマートで背が高くてセンスが良くて笑顔が素敵で。うん、四季宮さんにぴったりじゃないですか」
言葉が、止まらない。
「真崎君……お願い、少しだけ話を――」
「それに」
現実逃避をするための無意味な言葉が。
自分を守るためのくだらない言葉が。
膿を絞り出すみたいにあふれて仕方がなかった。
「ぼ、僕たちは最近ちょっと一緒に遊んだだけの仲じゃないですか。そりゃあ僕は友達がいませんし、四季宮さんくらいしか遊ぶ相手はいませんでしたけど、四季宮さんはそうじゃないでしょう? たくさんいる友達のうちの一人。それが僕です。だから……だから僕にそんなプライベートなことをいちいち説明する必要ないですよ」
どれだけ科学が発展しても。
いまだに開発されていない技術がある。
一度口にしてしまった言葉を、取り消す方法。
相手に届く前に、相手が理解する前に、なかったことにする方法。
いかなる事情があったとしても、口から出た言葉は空気をふるわせ、相手の耳に届き、鼓膜をゆさぶり、電気信号となって脳内を走り回った末に、僕の意図を相手に届ける。
今日日、メッセージアプリですら削除機能があるというのに、まったくもって、口頭でのやりとりというのは原始的でしょうがない。
どれだけ取り消したいと願っても、心の底から後悔しても、一度口にしてしまった言葉には責任が伴うなんて、やり直しがきかないなんて、ちゃんちゃらおかしいじゃないか。
そんな余談に。
現実逃避に。
僕がふけっている間に――四季宮さんは姿を消していた。
最後の僕の言葉に、彼女はなんて返したのか、まったく記憶になかった。
もしかしたら、何も言わなかったのかもしれないけれど。
だけどせめて、彼女の顔くらいは、見ておくべきだった。
相手の目すら直視せずに、一方的に言葉を投げかけるなんて……どこまでも僕は、卑怯者だ。
「えー、っと。藤堂君?」
ぽんと肩を叩かれる。八さんだった。
てっきり、もうとっくの昔に帰ってしまったと思っていた。
「な、なんでしょうか……」
「ぐーって、奥歯噛んで?」
「おくば……?」
「そ、ぐーって。うん、そっそ、そんな感じ。しばらくそのままでいてねー。いくよー! せーのぉっ!」
肺から空気が抜ける音がした。
衝撃と、次いで思い出したように鳩尾に走る痛み。
なるほど……奥歯を噛ませたのは、反動で舌を噛んでしまわないようにするためか。優しいんだかそうじゃないんだか、いまいち判断に困る行為だ。
痛みと吐き気に悶えながらも、頭のどこかの一部は冴えているようで、そんな毒にも薬にもならないことを考える。
「がはっ……はっ……ぁっ……げぁ……」
「藤堂君。私はねえ、今、大変に怒っています」
……でしょうね。
怒ってないのに人を殴るような人じゃなくて、逆に安心しました。
依然、えづいてまともに会話できない僕を見下ろしながら、八さんは、
「つーわけで、反省会するよ! ファミレスまでちょっと面貸せやー、だよ!」
まだ完全に回復していない僕を、半ば引きづるように、有無を言わさず歩かせた。
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