32日前

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 パーソナルスペースという言葉がある。  日本語に訳せば対人距離、つまり、他人に近づかれると不快に感じる空間のことだ。  女子よりも男性の方がパーソナルスペースは広いだとか、何センチメートルまでは近しい人にしか入って欲しくないだとか、様々な定義づけがされているようだけど。  こうして等間隔に座っているカップルたちを眺めていると、パーソナルスペースというのは実は人類一律共通で、明確なラインがあるのではないかとすら思える。  そう考えてみると、これ以上は入ってきて欲しくないという一定の距離が視覚化されているこの鴨川の河川敷は、なんとも興味深い。  距離にして約二メートル。人は通常、これくらいの距離を見ず知らずの他人と保ちたいと感じているのであれば。  今日乗った満員のバスや、押しのけながら歩いた人混みにいるだけで、僕たちは日々、多大なるストレスを感じていることになる。  生きているだけでストレスを感じる社会というのは、ひどく息苦しい。  うん、やはり人間は増えすぎたのだ。大体半分くらいの数くらいで、丁度良いんじゃないだろうか。 「真崎君、今、何考えてたの?」  人類の数を減らす方法についてです、とは言えず、僕は「大したことじゃないです」と返した。  今、僕の隣には四季宮さんがいる。  パーソナルスペース的な区分で言えば、密接距離。大体三十センチメートルほどしか離れていない距離に、四季宮さんが座っている。  別に大したことはない。  それこそ、満員バスの中、人混みの中で、幾度となく彼女と体は密着したし、それに比べれば、これくらいの距離はどうということはないはずだ。  だというのに、シチュエーションがそうさせるのか、はたまた、等間隔に並んだカップルたちがそれぞれ自分たちの世界に入り込んでいるからか、胸の動悸は一向に収まる気配がない。  人類の数を減らす方法を考え始め、そんな余談に想いを馳せて、現実から目を背けて心を落ち着けようとするくらいには、緊張していた。  ふと目線を横にやると、御影と織江さんが同じように二人で座っている様子が見えた。  なんだか、いい雰囲気だ。  なんだよあいつ、散々女性との出会いがないとか言っていたくせに、確定ルートがあるんじゃないか。  あとで覚えてろよ、めちゃくちゃにからかってやるからな。 「あの二人、いい感じだね」 「ですね。ちょっとびっくりしました」 「私も。織江ちゃんってあんなにお喋りなのに、自分のことはなーんにも教えてくれないんだもん」 「御影もそんな感じですよ。くだらないことはペラペラ喋るのに」 「ふふ、似た者同士の二人なのかもね」 「そうかもしれませんね」  二人の話をしていたら、自然と笑って話せるようになった。釈然としないけど、御影たちに感謝しなくちゃいけない気がした。  笑顔のまま、四季宮さんは「ちょっと話は変わるんだけど」と話し続ける。 「私ね、真崎君って無口だけど、実は頭の中では、すっごく色々なことを考えてるんじゃないかなって思ってるんだ」  そういえば、織江さんがそんなことを言っていたな。 「空を見つめるっていうのかな。視線がぽやーっと宙に浮いて、すっごく静かになるときがあるよね。今みたいに」 「僕は大体いつもそんな感じですよ」 「ううん、違うよ。真崎君はね、ちゃんと人の話を聞いてるの。そういう時の目はまっすぐで、静かで、ボーダーコリーみたいなくりっとした目だから、私ちゃんと分かるもん」  ボーダーコリーってどんな目してたっけ……。 「だからね、ずっと気になってたんだ。真崎君がいつも、どんなことを考えてるのか」  膝口に両腕を乗せて、さらにその上に、小さな顔をちょこんと乗せて。  四季宮さんは僕を見る。虹彩に、川辺の灯りが映りこんでいた。 「……すっごく、くだらないですよ」 「そういう話、大好きだよ」  変わってるな、四季宮さんは。  僕はとつとつと語った。  僕の余談を語った。  例えば。  四季宮さんを階段で受け止めようとした時、どうして唇の色は赤いのだろうと考えていたこと。  御影と話している時に、友達を作らない人と、作れない人について考えて、少し気分が良くなったこと。  四季宮さんの家に遊びに行った時、今の状況を飲み込めていないのは、決して僕の頭が悪いからではないと言い訳していたこと。  今、こうして四季宮さんの隣に座っていると緊張するから、人類の数を減らす方法について考えていたこと。  それから……班分けをするとき、群れになじめない少数派(マイノリティ)の僕は、淘汰され、駆逐されるだけの弱い生き物なのだと腐っていたこと。 「それは違うと思うな」  静かに、にこにこと、たまに楽しそうに相槌を打ちながら聞いていた四季宮さんが、そこで言葉を差し込んだ。 「少数派だって、強いんだよ」 「そうでしょうか」 「そうだよ。ほら、例えば、お魚さん」  転がっていた石を拾い、四季宮さんは地面に魚の絵を描いた。 「あるサメさんは、黄色いお魚さんを餌にしています。黄色い模様が入ったお魚さんを目印にして、ぱくぱくぱくっと食べてしまいます」  そして、幼稚園の先生がお昼寝の時間に語り聞かせてくれるように、優しく語る。 「そんな黄色いお魚さんの中に、青い色のお魚さんが生まれました。青色のお魚さんは、黄色のお魚さんたちの中でうまく馴染めません。『変な色だ』」『おかしな色だ』と馬鹿にされ、青色のお魚さんは悲しくなります。だけど――」  がりがり、と引かれた線に、小さな魚たちは消されていく。 「黄色いお魚さんたちは、みーんなサメさんに食べられてしまいました。でも、青いお魚さんは逃げ延びました。サメさんは黄色い模様ばかりを追いかけていて、青いお魚さんを見落としていたのです」  こうして、青色のお魚さんは、サメさんにおびえることなく、幸せに暮らしたのでした。めでたしめでたし。 「……絵本にするには、ちょっと過激すぎますね」 「ふっふっふー、自然界はいつも残酷なのだよ」  四季宮さんは続ける。 「それで……真崎君は今の話、どう思った?」 「……」  僕は考える。  もしも、彼女が話したように。  そうやって、多数派だけが席巻することなく、少数派の――ともすれば虐げられてしまっているような者にも、生きる意味が与えられているのであれば。 「私はね、そんなに悲観的にならなくたって、いいんじゃないかなって思うよ」  例えばそれが、クラスになじめない、臆病な男だったとしても。  例えばそれが―― 「少し変わった体質を持っている、人だったとしても」 「……」  僕たちの周りを、一陣の風が走り去って行った。  日も、かなり落ちた。  寒いねと四季宮さんが言って、寒いですねと僕も返した。  そろそろ戻ろうかとは、どちらも言わなかった。 「僕は……自分をたくさんの壁で守らなくちゃ、生きていけないんです」 「うん」 「心が弱いから、心が脆いから……たくさんの予防線を引いて色んな言い訳をして守らなくちゃいけないんです、壊れてしまうんです」 「うん」 「だから」  唾を飲み込む。  喉がきゅっと音を立てた。  だけど今、言わなくちゃいけないと思った。  僕の弱さを、柔らかく肯定してくれた彼女に。 「あの日、四季宮さんにひどい言葉を言ってしまったのは僕の心が弱いからなんです」  本当にごめんなさい。と、僕は謝罪した。心から。  四季宮さんは、たっぷりと間を置いた。  僕の言葉を、丁寧に丁寧に、耳の中で転がしてるみたいだった。  やがて、四季宮さんは口を開いた。 「謝らなくちゃいけないのは、私の方だよ」 「……え?」 「銀山さんのことを話さなかったのは、私の心が弱かったからなんだ。もし本当のことを話したら……君が離れて行ってしまうんじゃないかって思って、怖かった」  何かを決心したような。  だけど少し物悲しい。  そんな表情をしていた。 「それにもし、なんとも思われなかったとしても……きっと私は苦しいと思った。だからずっと言えなくて……結果的に、私は君を傷つけた」  きっと僕は。  四季宮さんの言っていることを、半分も理解できていなかった。  じりじりとした焦りがムカデのように足元から這い上がって来て、思考の幅を狭めていく。 「あのね、真崎君。私、思うんだ」  彼女の話がどこに向かっているのか。  最後に何を言おうとしているのか。  四季宮さんの表情と、声音と、雰囲気から。  なんとなくそれが察せられたから。 「真崎君をこれ以上傷つける前に、私は――」 「ま、待ってください」  僕は慌てて、口を挟んだ。  その先の言葉を聞いたら、すべてが終わってしまう気がした。  だから、 「ぼ、僕は大丈夫ですから!」  ちゃんと伝えるんだ。  思いつくままに、言葉を連ねる。 「最初はびっくりしちゃいましたけど別に今は大丈夫っていうか。いや、この場合の大丈夫っていうのは気にしてないってことではなくてむしろ滅茶苦茶気になってはいるんですけど、そういうことが言いたいわけじゃなくて……」  僕は何もできない。  四季宮さんの家の事情に関わることはできない。  彼女を助け出すことも、できない。 「僕が言いたいのは婚約のことなんて関係ないってことなんです。僕と四季宮さんが一緒に遊ぶことと婚約の話は別っていうか、四季宮さんさえ良ければ、僕はまったく構わないというか。つ、つまり、何が言いたいかというと――」  きっと。  彼女と一緒に居られる時間は、そう多くない。  冬が終わり、春が来たら。  いや……もしかしたら春が来る前に。  僕たちの不思議な関係は、終わりを迎えてしまうのかもしれない。  けれど。  それでも。 「僕はもう少し、四季宮さんの友達でいたいんです」  川のせせらぎと。  風の音と。  橋の上を走る車の音と。  後ろを通り過ぎる人々の、笑い声が。  渾然一体となった雑音をかき消すほどの、沈黙。  やがて、 「ダメだよ、真崎君」  四季宮さんは僕の方を見て、桜色の唇を震わせて、 「私、弱いんだよ……。弱くてずるくて臆病で……意気地無しなんだよ。だから――」  困ったように、泣き出しそうな表情で。だけど少し――嬉しそうに。  つぶやくように、言った。 「だから――そんな嬉しいこと言われたら……私、断れないよ」
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