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「着いちゃったよ……」
思わず独り言ちる。
あっけに取られてしまうくらいにすんなりと、四季宮さんの部屋にたどり着いてしまった。
基本的に女子の部屋と男子の部屋は階が分かれていて、行き来しにくいようになっている。しかし、四季宮さんの部屋だけは特別に別の階にあてがわれていたからか、なんのハプニングも起こらなかったのだ。
ゆっくりとボタンを押したのに、部屋の中から漏れ聞こえるベルの音は思っていたよりも大きくて、誰かに聞かれていやしないかと思わず左右を確認した。
「いらっしゃい。さ、入って入って」
「お邪魔します……」
四季宮さんはパジャマ姿だった。
淡いピンク色のグラデーションが綺麗な、薄手のモールウール。
襟や袖の部分に控えめに入った白いストライプがいい仕事をしている。
思えば四季宮さんの家でファッションショーをして、何着もの服装を見させてもらっていたけれど、パジャマ姿を見るのは初めてだった。
当然のことながら、寝巻というのは部屋の中で着ることを想定して作られている。行動範囲はベッドの周辺、せいぜい近場のコンビニくらいまでだろう。
だから、飾らない。
シンプルで、ラフで、無防備な印象を受ける。
それゆえにパジャマを着た四季宮さんからは、いつもとは違う魅力があふれている気がした。
リラックスしているというか、気が置けない雰囲気というか、とてもプライベートな部分に踏み入っている気がして、どきどきする。
「おやおや? 真崎君、ちょっと見すぎじゃない?」
「え!? あ、えと、そ、その! これは違うくて決してやましい気持ちとかはなくてですね! 単純にすごく似合っていて可愛らしいなあと思っただけで変な気を起こしたりしたわけではないんです!」
「もー、だから早口すぎ。句読点、ちゃんと意識しないと」
「ご、ごめんなさい……」
「だけど……似合ってて可愛いってところは聞き取れたから、よしとしようかな」
わずかにのぞいた指先で裾とピッと引っ張って、一瞬ポーズを取った。
モデルさんみたいだ。
パジャマは上下ともに肌を完全に覆い隠していて、一見しただけでは、彼女の自遊病の痕は見えなかった。着替えるところさえうまく隠せば、織江さんにもバレなかっただろう。
そこまで考えて、このままだと四季宮さんのパジャマ姿に見とれて話が進まないことに気付いた僕は、慌てて本題に入る。
「そ、それで自遊病がどうかしたんですか?」
「ん? なんの話し?」
きょとんと首をかしげる四季宮さん。
「い、いや。だってメッセに……」
「あー、そっか。そういう名目で呼び出したんだっけ」
「め、名目……?」
「そーだそーだ、そうだった。真崎君と喋るの楽しくて、つい忘れちゃってたよ」
そう言うと、四季宮さんは扉を大きく開き、
「ま、立ち話もなんだし、こっちおいでよ」
四季宮さんの後について、部屋の奥に行く。
生徒にあてがわれている部屋とは違って、ベッドは一つしかなかった。
やけにいい匂いのするこの部屋の中で、自分をどこに置こうかと目を泳がせていると――ベッドの上にある、銀色の輪っかに目が止まった。
ドラマとかアニメでは何回も見たことがあるけれど、実物を目にするのは初めてだった。
手錠。
重々しくて冷たい色で光ったそれは、ありふれたビジネスホテルの一室の中で異様な存在感を放っていた。
「これをはめてるところを、真崎君に見てて欲しいんだ」
四季宮さんの表情は穏やかだった。
例えば、お気に入りのクマのぬいぐるみを見せてくれる時だって、同じような表情をするのではないだろうか。
そう思うくらいに、不自然すぎるくらいに、自然体だった。
「……分かりました」
僕は頷いて、ベッドの横にある椅子に座った。
四季宮さんは足首を出して、手慣れた様子で手錠を両足に付けた。
「お家のベッドなら支柱があるから、もうちょっと楽なんだけどね。手足をつなぐ場所がない時は、こうして両手両足を手錠で縛ることにしてるんだ」
続いて左手にもう一つの手錠をはめて、両手を背後に回した。
そのままぶら下がった片方の輪っかを器用に取り上げ、右手にも付ける。
キチキチと、四季宮さんの自由を奪う歯車が回る音がした。
両手両足を自身で縛った彼女は、ベッドの上でミノムシのように体をよじった。
「よっし、それじゃあ真崎君。君の出番だ!」
「え?」
「このままだとまだ拘束が甘いから、手足の手錠をつなげて欲しいの。ここ……ここに、もう一つ手錠あるからさ、お願いできる?」
両足でちょいちょいとベッドの端を指して、四季宮さんは言った。
このうえまだ手錠をかけるのか……。
確かに今の状態だと、自由度は高くないとはいえ、ぴょんぴょんと両足で飛べば移動できなくもなさそうだけれど。
ベッドの上に乗っかると、二人分の重みでベッドがぎしりと沈んだ。
四季宮さんが足を折り曲げ、体を反らす。両手両足の手錠を縛りやすくする行為だと分かってはいても、柔らかな生地のパジャマ越しに強調された体のラインに否応なく目が吸い付きそうになる。
手元の手錠にだけ意識を集中させながら、僕は問う。
「これ、僕がいなかったらどうするつもりだったんですか」
「先生にやってもらうつもりだったよ? あ、もちろん女の先生ね」
当然そうであって欲しかった。
「家ではどうしてるんですか」
「そりゃあもちろん、お母さんにやってもらってるんだよ」
手錠をはめるとき、四季宮さんの手首に指が触れた。
滑らかな肌と、赤く、凹凸になってしまった傷痕。
彼女の最も繊細で秘められた部分に触れると、「んっ……」という声をもらして、四季宮さんが身じろきした。
慌てて指をはなし、手錠をかける。
両手両足は手錠を介してつながり、四季宮さんの体からは完全に自由が奪われた。
「うん、完璧。ありがとね、真崎君」
ころんとひっくり返って、笑顔で言った。
あまりにも無防備だった。
ろくすっぽ動けない状態で、薄いパジャマ姿で、しかもホテルの一室で二人きりだなんて。
僕がもし変な気を起こしたら、どうするつもりなのだろうか。
「真崎君はそんなこと、できないでしょ?」
「僕、何も言ってないんですけど」
「顔見ればわかるよ」
どんな表情をしていたんだ僕は。
思わず顔を触ると、四季宮さんは楽しそうに笑った。
どうやらカマをかけられただけのようだ。
「……じゃあ僕、帰りますね」
「えー、なんでー。もっとお喋りしようよー」
勘弁してください。
理性と本能を戦わせるのにも、カロリーがいるんですよ。
「さびしーなー。折角の修学旅行の夜なのに、一人寂しく寝るなんて嫌だなー」
「明日も観光しますし、早めに寝た方が賢い選択ですよ、きっと」
「でもほら、真崎君、私と約束したでしょ? たくさん遊んでくれるって。あの約束、まだ有効なんだよね?」
「うっ……」
自遊病を知る僕にしか付き合えない遊び。
確かに修学旅行の夜、友達と喋るのは、自遊病のことを知っている僕にしかできないことかもしれないと、少し納得してしまった。
それになにより。
まだ友達でいたいと進言したのは、他でもないこの僕だ。
「ね、もうちょっと。もうちょっとでいいから」
お願いお願い、とベッドの上でごろごろと転がる四季宮さんは、駄々をこねる子供以外の何物でもなかった。
転がる度にめくれ上がっていくパジャマの裾が、とうとう肌色の部分を見せようとしたとき、
「わかりました、わかりましたから……」
僕は四季宮さんに布団をかぶせて、観念して言った。
この状態なら、まだ幾分か目に毒ではない。
「やった。ありがと」
布団から顔だけをのぞかせ、四季宮さんは嬉しそうに笑った。
きっと誰も見たことがないような、全てを知られている人にだけ見せられる、無防備な笑顔。
彼女にそんな表情を向けられると、何かを勘違いしそうになってしまう。
雑木林が強い風にあてられたみたいに、心がざわついてしまう。
そのたびに自分に言い聞かせる。
クラスメイトの中で自遊病のことを知っている人はいない。
手足を縛られた状態で寝ているところを見られたこともない。
そんな不自由な生活を送っていた彼女が、はじめてありのままの自分の姿を見せて関わることが出来る相手。
そのポジションに、たまたま僕が入り込むことができた。
ただ、それだけなのだと。
「真崎君は、引かないんだね」
「なににですか?」
「私のこの姿。醜いでしょ?」
衣擦れの音が聞こえる。布団の中で体をよじったのだろう。
少し前に電気は消して、足下の常夜灯だけが部屋の中をじんわりと照らしていた。僕はベッドに背中を預けて、床に腰を下ろした状態で話しをする。
「醜い……ですか?」
ちょいちょいと足で指示していた姿や、ころころとベッドの上で転がっていた姿、そして強調された体のラインなんかが脳裏をよぎって、僕はかぶりを振った。
可愛らしい、艶めかしいとは思ったけど、醜いとは思わなかったな。
「少なくとも、私の婚約者の家族は、そう思ってるみたいだよ」
心臓がびくんと跳ねた。
あれ以来、婚約者の話を四季宮さんから振って来たのは、初めてのことだった。
「……心が狭いんじゃないでしょうか」
「あはは、そうなのかも。でもね、気持ちは分かるんだよ。結婚した相手とか、その家族が、寝る時に体を手錠で縛らなくちゃいけない奇病にかかってるなんて、普通は嫌だもん」
具体的に誰が拒否しているのか、彼女は言及しなかった。
一人なのかもしれないし、複数なのかもしれなかった。
「その……治る見込みってあるんですか?」
暗闇が顔を隠してくれているから、僕は少し、踏み込んだことを聞くことにした。
四季宮さんはさらりと答える。
「分かんない。お医者さんは、精神的な物が影響してるだろうって言ってたけど」
もし治らなければ、四季宮さんの結婚は先延ばしになり続けるのだろうか。
それこそ、何十と年を重ねても治らなければ、結婚自体が破談になるのだろうか。なんとなく僕は、そうではない気がした。
「やだなあ」
四季宮さんの呟きは、暗闇の中にぽつんと取り残された。
なにが嫌なのか、聞けなかった。拳を握り込んで、押し黙る。
ことり。
静寂の中で、何かが落ちる音がした。
顔をあげると、机の上からカバンが落ちてしまっていた。
そのままにしておくのもなんなので、僕は立ち上がり、拾い集める。
スマホ、化粧品、本、ハンカチ、財布……。
一つ一つを戻していくと、最後に残ったのは手帳だった。
十二月のページがぱっかりと開いている。
暗闇に慣れた僕の目は、右下に書いてある文字を、見逃さなかった。
「……四季宮さん。クリスマスが誕生日なんですね」
「え?」
ベッドからもぞもぞと衣擦れの音が響く。
こちらに顔を向けるために、反転したらしい。
「ごめんなさい。手帳拾った時に、見えちゃって……」
「ううん、気にしないで」
僕は手帳をカバンの中に戻し、再び床に座った。
「もしかして……もう一個の方も見えちゃった?」
「……はい」
二十四日、クリスマスイブ。
その日は四季宮さんの家でパーティーがあるらしかった。
その下には小さく「真崎君たちを誘う?」と書かれていて、その上に斜線が引いてあった。
これはおそらく――
「本当はみんなを誘いたかったんだけど……銀山さんが、いるから……」
曰く、銀山さんの父親が知り合いを集めて、毎年パーティーを開いているのだそうだ。数年前から四季宮さんの家族も参加しているらしい。
なんでも、ホテルのイベントホールを貸切った、規模の大きいものなのだとか。
「隠すつもりはなかったんだけど……」
「四季宮さん」
十二月二十五日。
四季宮さんは誕生日を迎える。
十八歳になる。
成人に、なる。
何の根拠もない、ただの直観だった。
だけど、妙に胸がざわついた。
その日を迎える前に、四季宮さんに会わなくてはならないと思った。
「僕もパーティー、行ってもいいですか?」
「……いいの?」
「はい。ご迷惑でなければ、行かせてください」
「め、迷惑なんかじゃないよ! すっごく嬉しいよ!」
珍しく慌てて、四季宮さんは食い気味に言った。
それがなんだかおかしくて、僕は声を出さずに笑った。
「そっか……よかったあ……」
ぽすんと空気の抜ける音。羽毛の枕に頭を落としたのだろうか。
「クリスマスの前に、会えるんだ……」
胸の奥がちくりと傷んだ。
僕はそっと、そのつぶやきを聞かなかったことにした。
「安心したら眠くなってきちゃった」
しばらくして、四季宮さんが呟いた。
時計を見ると、午前二時近かった。随分と長く話していたものだ。御影ももう、部屋に戻っている頃だろう。
「じゃあ、僕も帰りますね」
「うん、おやすみー……」
すっかり暗闇に慣れた目で、四季宮さんの顔を見る。
穏やかな顔で寝息を立てていた。
これから死に向かう病気と闘うとは思えない程に、穏やかな。
僕は足音を忍ばせて、扉へ向かい――
「あ、そうだぁ……」
思い出したように発せられた声に、びくりと立ち止まる。
「な、なんですか?」
「明日の朝、手錠の鍵、外しに来てねぇ……。一人じゃ外せないから……」
「え」
考えてみれば、当然のことだった。
一人でかけられなかった手錠を、一人で解錠できるわけがない。
第三者の力添えなくして、彼女は手錠を開けられない。
そしてもし先生に今の状態で見つかれば、誰に手伝ってもらったのだと問い詰められることになるかもしれない。
しかし――
「どうやって部屋に入ればいいんですか……って、もう寝てるし……」
返ってくるのは寝息ばかりだった。
背後にあるオートロックの扉を眺めて、僕はため息をついた。
なんでそういう大事なことを、最後に言うんだこの人は……。
結局僕は、悪いと思いながらも四季宮さんの部屋のカードキーを拝借して、一度自分の部屋に戻った。
※
翌朝、起床時間の二時間前に四季宮さんの部屋を訪ねると、彼女はすでに起きていて「おはよー。一回部屋に戻ったんだね。あのまま私の部屋で寝てくれても良かったのに」と言った。
彼女の言う通り、この部屋で一晩過ごすという手もあった。
だけどきっと四季宮さんは、自遊病に苦しむ、その瞬間を見られたくないはずだと思ったから、僕は彼女の部屋では寝なかった。
黙って手錠の鍵を開けて、僕は「また後で」とそそくさと部屋を後にした。
後から思えば。
あの時、部屋に残る選択を取っていれば。
未来はまた違った形になっていたのかもしれない。
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