8人が本棚に入れています
本棚に追加
三十分もすると、パーティー会場にはかなりの人が集まってきて、部屋の温度が少し上がったようだった。
襟付きシャツの第一ボタンを外しながら会場を見渡すと、いくつものグループができていて、みな思い思いに歓談していた。
僕は会場から少し離れることにした。
少し、人酔いしたようだ。
やっぱり人混みは苦手だ。
だけど今日は――四季宮さんと二人きりになるまでは。
帰るわけにはいかないんだ。
「あら、あなたは――」
廊下を少し歩いたところで、見知った人に出会った。
四季宮さんのお母さんだった。
黒を基調とした上品なドレスに身を包み、手にはシルクの手袋をつけていた。
「今日は茜のわがままを聞いてくれて、ありがとうございます。あの子、すごく喜んでました」
「とんでもないです」
お母さんは顔色が優れないようだった。
僕と同じく、人酔いをしたのだろうか。
パーティー会場でもたびたび見かけてはいたけれど、旦那さんと思しき人の横で控えめに笑うだけで、心底楽しんでいるようには見えなかった。
体調が芳しくないのかもしれない。
「人が多くて大変かもしれませんが、良かったら茜とたくさん話してやってくださいね」
そう言ってお母さんは少し疲れた笑み浮かべた。
ふと、右手首の辺りに巻かれた包帯が手袋の隙間から垣間見えて、僕は口を開く。
「右手の怪我、大丈夫ですか?」
「え?」
「いえ、その……前に伺った時も包帯を巻かれてたので、つい」
綺麗に整えられた眉の間にしわが入ったのを見て、背中からブワッと嫌な汗が出た。
しまった、余計なお世話だっただろうか……。
四季宮さんのお母さんは、そっと隠すように手袋を引っ張りあげながら、控えめに笑った。
「お気遣いありがとうございます。大した怪我じゃないんですけど、この年になると治りが遅くて……」
「す、すみません。踏み込んだことを聞いてしまって」
「いえ、いいんですよ。それに――」
すっと、整った顔に影が差す。
光の加減だろうか、一気に歳を取ったように錯覚した。
「これは自業自得ですから」
深く追求する間もなく、四季宮さんのお母さんは去っていった。
最後のつぶやきは、僕にぎりぎり聞こえるくらいの、本当に小さな声量だった。
最後の言葉は、どういう意味だろう……?
しばらく考えてはみたものの、ついぞ答えは出なかったので、僕は考えるのをやめて歩き出した。
「真崎君」
少し歩くと、ぽんと後ろから肩を叩かれた。
今度は四季宮さんだった。
誰かからもらったのであろう小綺麗な紙袋を後ろ手に持ち、「やあ」と片手を挙げた。
相変わらずひときわ突き抜けて美しいドレス姿に、僕は一瞬目が泳いでしまう。
「今、お母さんと喋ってなかった?」
「ええ。ちょっと挨拶しただけですけど。なんだかお疲れみたいでした」
「あはは……。お母さん、こういうパーティーちょっと苦手だからね。いつも途中で一回抜けるんだー。真崎君は大丈夫? 疲れちゃった?」
「少しだけ。僕もこういう場には、あんまり慣れてないみたいで」
四季宮さんが綺麗な形の眉をハの字にしたので、慌てて付け加える。
「でも、楽しいです。誘ってくれて、ありがとうございます」
瞬間、ころっと表情が変わって、嬉しそうに頬を緩ませる。
「ならよかった。私も、真崎君が来てくれて嬉しいよ」
「そんなこと言ってくれるの、四季宮さんくらいですよ」
「だって、真崎君のそういう恰好見るの初めてだし……」
四季宮さんの声に釣られて目線を落とす。
無地のカッターシャツに深緑色のカーディガン。ちょっとフォーマルは意識しているとはいえ、取り立てて注目するほどのものでもないと思うけど……。
「とってもカッコイイよ」
「ありがとう、ございます……」
直球で褒められると照れてしまう。
僕は意味もなく前髪を触ったりしながら、これはチャンスかもしれないと話を切り出そうとした時――
目の奥で線香花火が散った。
僕たちに――いや、四季宮さんに話しかけている銀山成明の姿が視えた。
銀山さんは僕には一瞥もせず、ただ四季宮さんだけに目を向けていた。
四季宮さんも、少し困ったような顔をしながらも彼に応えていた。
僕はただ、その様子を眺めていた。
眺めていることしか、できなかった。
セピア色の世界の中で、僕という存在は爪弾きにされていた。
その光景に胸の奥が鈍く傷む。鼻の奥がツンと引きつった。
改めて知る。
僕は、彼女たちの世界に干渉できない。
僕の住む世界と、四季宮さんが住む世界の間には大きな隔たりがあるのだ。
僕たちは同じ高校のクラスメイトで、偶然にも秘密を共有していて。
それが奇跡的に二人をつなげてくれてはいるのだけれど。
家柄が、身分が、人間性が。
見えない壁となって二人の間にそびえたっている。
だから僕は何もできない。
クラスメイトの一員以上の何かを、求めることはできない。
分かってる、分かっているんだ。
「それでね、真崎君。私――っ!?」
四季宮さんのほっそりとした手首をつかんで、僕は足早に歩き出した。
「ま、真崎君、どうしたの?」
「すみません、ちょっとだけ、付いて来てください」
行く当てがあったわけじゃなかった。
とにかく、ここでなければ。
銀山成明が来ない場所であればどこでも良かった。
くだらない意地を張っていた。
ここで四季宮さんと銀山さんを会わせなかったからといって、何かが変わるわけじゃない。
だけど――ほんの少し先。六十秒後の未来に、あらがいたくなったんだ。
最初のコメントを投稿しよう!