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「……随分、急な話ですね」  あれから。  泣き腫らした四季宮さんが、手洗い場に向かい。  それと入れ替わるようにして入ってきた銀山さんが、僕に告げた。 「今の僕と彼女は、婚約状態。婚約というのは、法的な拘束がない。ただの口約束みたいなものだよ。破棄しようが踏みにじろうが、別になんの罰も受けやしない。だけど、今度のはわけが違う」  銀山さんは、スマートに着こなしたスーツに見合わない、スナック菓子を片手で開けながら、気だるげに柵に寄り掛かった。 「籍を入れる。これが何を意味するか、分からないわけじゃないだろう」  僕は、言う。 「……どうしてそんなに急ぐんですか」  銀山さんは答える。  他人事、みたいに。 「父さんが茜ちゃんにえらくご執心でね。僕たちの家の近くに引っ越させて、秘書業務をやらせようって魂胆みたいだよ」 「秘書、業務……」  なんだよ、それ……。  この人たちは、四季宮さんの人生を何だと思っているんだ……?  地元から離され、友人たちとの関係性を絶たれ、大学にも行かせてもらえず、好きな人も作れずに、ただ薄汚い大人の思うがままに弄ばれる。  そんな……そんなことが……! 「許されるわけ、ないじゃないですか……っ!」 「ま、そう思うのが普通の感性だよね」  シニカルに笑う。  何が面白くて笑っているのか理解できなかった。 「残念なことに、僕の家族も彼女の家族も普通じゃない。父親はそろってクズ。茜ちゃんの母親に至っては気弱すぎて話にならない。僕の方の母さんは既に他界しているし、当の茜ちゃんは小さい頃からの教育で、父親に逆らうことすらできない状態だ」  盤面は詰んでるよね。  対岸の火事を眺めるように言って、スナック菓子を噛んだ。  静かな夜に響く、さくさくとスナック菓子を消費する音が、僕の神経を逆なでする。 「あなたは、どうなんですか……」 「なに?」 「あなたが拒否すれば、四季宮さんは助かるじゃないですか……? この状況が狂ってると、一番わかっているはずなのに……なのにどうして……どうしてそんなに、のんびりしてられるんですか!」  熱が入って、最後の方は声が荒くなった。  それでも銀山さんは、眉一つ動かさない。  手に着いたスナック菓子の粉を払いながら、僕とは正反対に、静かな声音で言う。 「残念ながら、僕は医者としての才能があまりなくてね。父さんの威光を笠に着ないと、生きていくために相当頑張らなくちゃいけないんだよ」 「……は?」  ……何を言っている? 「僕は楽に、楽しく生きていたいんだ。頑張るのは好きじゃないし、争いごとなんてもっとごめんだね。このまま順当にいけば、金持ちの僕と遊びたいだけの、結婚願望のない、都合のいい女の子をはべらせながら、適当に仕事をこなして生きていくことができるんだよ」  この人は一体……何を言っているんだ? 「父さんに逆らうってことは、その人生を捨てるってことだ。たった一人の女子高生のために、どうして僕がそこまでしなくちゃいけないんだ? さっきも言ったろう? 同情はするさ。だけど手を出しはしない。それが僕の結論だよ」  ふざけるな……。  ふざけるな……ふざけるな、ふざけるな!  ふざっけるなよ!!  あなたならこの状況を変えられるはずだ!  あなたなら四季宮さんを救えるはずだ!  あなたがその気になれば、この狂った盤面をひっくり返すことだってできるかもしれないのに!  なのにそんなくだらない理由で!  そんなちっぽけな理由でっ!  四季宮さんを見殺しにするのかよっ!  四季宮さんが、どんな気持ちでいるか…… 『苦しいよ……真崎君っ……!』  あの言葉を言わないように、どれだけ我慢してきたか!  あんたに分かるのかよ!  目の前が真っ白になり、後頭部がかっと熱くなって、僕は足を踏み出した。  次の瞬間、 「暴力はよくないね」  涼しい顔をして、銀山さんは僕を見下ろして言った。  掴みかかろうとした僕を、片足一つで転ばせて、両手にはスナック菓子の山を抱えたまま、微動だにしていない。 「……くしょう……っ」  自分の無力さに、反吐が出そうだった。  腹が立って仕方がなかった。  怒りとやるせなさで、体が小刻みに震えている。  それでもなんとか片足をついて立ち上がりながら、僕は声を絞り出した。 「……病気のことはどうなるんですか」  銀山さんは形の良い眉をぴくりと上げた。 「なんだ、やっぱり知っていたのか。ずいぶんと好かれているんだね、君」  違う……僕はたまたま知っただけだ。  信用されたから、話してもらったわけじゃない。 「どうやら簡単に治る病気じゃなさそうだからね。脳波の測定や、カウンセリングも含めて、最先端の治療を用意するつもりみたいだよ。自分の近くに置くのは、それも一つの理由なのかもしれないね」 「四季宮さんは、あの病気があれば、自分はしばらく結婚しなくて済むって――」 「ああ。父さんはあれで小心者だからね。世間体を気にしたほうがいいって理由で、しばらくはけど……それも限界みたいだ」 「……抑えられていた?」  妙な言い回しだ。  それじゃあまるで、本心では四季宮さんのことを心配しているみたいじゃないか。  一瞬思考を乱されて、次の言葉につなげるのが遅れた。  その隙に、銀山さんが口を開く。 「しかし君――藤堂君、だっけ。さっきからごちゃごちゃと、まるで言い訳がましい男だね」 「言い訳がましい……?」  僕の思考を遮るように、銀山さんは続ける。 「友人も家族も婚約者も、そして自病すらも、彼女を救うことはできない。状況はどうしようもないくらいに詰んでいて、馬鹿みたいに時代錯誤な話が、馬鹿みたいに本気で進められている。一人の少女が犠牲になることで、歪な舞台の上で汚らしい大人が笑っている。ふざけてると思わないか? はらわたが煮えくり返るくらい、憎いと思わないか?」  思う。  思うさ。  だからこそ僕は、あなたに四季宮さんを助けてもらいたいと―― 「だったらもう、答えは一つしかないじゃないか」  銀山さんは言う。   「」 「……は?」 「は、じゃない。君しか残ってないだろう、彼女を助けられるのは。四季宮家と銀山家は明日の十八時に、このホテルで両家の顔合わせやらの手続きを進める。そのまえに、彼女を連れて逃げればいい」 「ち、ちょっと待ってくださいよ!」  思考の整理がつかなくて、僕は銀山さんを制止した。 「急にそんなこと言われても、頭回りませんし……。そ、そもそも銀山さん、言ってることが無茶苦茶ですよ……。四季宮さんを助ける気はないとか言いながら、自分が結婚を遅らせていたみたいな言い方したり、僕に明日の予定を教えてきたり……わけ、分かんないですよ」 「くだらないね」  実にくだらない、と銀山さんは繰り返した。 「僕が何を考えていようが、僕がいいやつだろうが、悪いやつだろうが、度し難いクズ野郎だろうが、君には関係のない話だろう? ……なあおい、藤堂君。いい加減目を背けるのは止めにしないか」 「……僕が、何から目を背けてるって言うんですか」 「彼女を助けられるのは、君しかいないという事実からさ」 「助けるって、だからそんなの――」 「なに、簡単だよ。逃避行ってやつをすればいい。駆け落ちの一つや二つ、昔はよくあったことさ。現代でだって、まあできないわけじゃない」  そんなこと、できるわけないだろ……!  握りしめたこぶしで柵を殴りつけて、僕は苛立たしく口を開く。 「無理ですよ。だって僕たちはまだ高校生だし、そもそも逃げるって言ったってどこに行けばいいんですか。両家とも血眼になって探すだろうし、財力だって権力だってけた違いじゃないですか。そんな人たち相手に、僕たちがどうやって――」 「はあ、御託が長いね。どうやら君も、重症なようだ」  銀山さんは、やれやれ、と首を横に振った。  まるで、聞き分けのない子供に手を焼いているように。  僕は奥歯をかみしめる。  相変わらずぼりぼりとのんきにスナック菓子を食べ続ける銀山さんに、無性に腹が立った。  いらいらと頭をかきむしる僕の視界に、銀山さんが両手に抱える、スナック菓子の容器が映る。  赤いフェルトでできた容器は靴下の形を模していて、可愛らしいリボンがくっついている。まるで誰かにもらった、プレゼントみたいだった。 「……プレゼント?」  はたと気付く。  そういえば、僕は四季宮さんからマフラーのプレゼントをもらったけれど。  彼女は立場上、僕なんかよりも優先してプレゼントを贈るべき相手がいるのではないだろうか?  そしてその人物は、今両手に大量のスナック菓子を抱えていて――  僕の視線に気づいた銀山さんは、赤い靴下型の容器を軽く持ち上げた。 「ん? ああ、これ? お察しの通り、茜ちゃんからのクリスマスプレゼントだよ。なかなか強烈だと思わないか?」  山盛りのスナック菓子。  あれが銀山さんへの、クリスマスプレゼント……? 「くくっ……このプレゼントを見た時の茜ちゃんの父親の顔ったら、傑作だったな。『高校生のお小遣いだと、これくらいが限界で……』だってさ。あの一幕を見られただけで、十分すぎるくらいのプレゼントだ。いや、愉快愉快」  そう言って銀山さんは、からからと笑った。  僕は、首に巻いたマフラーにそっと手を当てた。 「……なんだい、その目は。あげないよ?」 「いりません」 「結構美味いのに。あげないけど」  だからいらないって。  四季宮さんからもらったスナック菓子を、大切そうに食べる銀山さんは。  僕にとっては憎むべき相手のはずなのに――事実、はらわたが煮えかえるくらいにむかっ腹が立っているのに、どこか嫌いになりきれなくて。  それがまた腹立たしかった。 「茜ちゃんは面白い子だよ。自分の運命に逆らえないことを知りながらも、それでも懸命にあがいてる。ただ僕がみるに、もう一つピースが足りない」 「だったら――」 「そこで君だよ」  銀山さんはまっすぐ僕を見つめた。 「さっき君が茜ちゃんの手をひいて、このテラスに移動した時、僕は思ったんだよ。この子なら、もしかしたら茜ちゃんを救えるんじゃないかってね」 「……話が飛躍しすぎてます」  たしかに僕はさっき、四季宮さんをテラスに連れてきた。  だけど、その理由は決して褒められたものではない。  ただ、銀山さんと彼女を鉢合わせたくなくなかっただけ。  爪弾きにされた世界にいる自分を見たくなかっただけ。  そんな稚拙で、利己的で、矮小な気持ちでしか動けない僕に、四季宮さんを助ける資格があるとは思えない。 「いや、飛躍してなんてないさ。茜ちゃん一人なら無理だった。だけど、誰か彼女に寄り添うことができる子がいるなら――可能性はゼロじゃない。だから僕は君に、明日の予定を話したんだよ」 「やめてください……僕は……僕なんかが……」  何かが落ちる音がして、次いで体に衝撃が走る。  僕の両肩を銀山さんが掴んでいた。 「聞くんだ」  銀山さんの目は本気だった。  本気で僕を説得しようとしていた。  その力強い声音をうらやましく思った。  あなたほど自分に自信が持てるスペックがあれば、どれだけよいかと思った。  そうすれば僕だって。  僕だって。 「もう一度言うよ、藤堂君」  僕、だって……っ 「君が、四季宮茜を助けるんだ」
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