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前日
正解が分からないままに行動することが、怖い。
言い換えればそれは、ゴールが見えない状態でマラソンを走り出すようなものだ。
どれくらいのペースで走ればいいのか、コースの状態はどうなっているのか、自分の体力で走り切れるのか。そんなあれやこれやが分かった状態で走りたいと思うのは、至極普通のことだろう。
だけど時に現実というのは残酷なもので、何の情報も与えられないままに、走るか、走らないかの選択を迫られる。
準備する時間を与えてはもらえない。
考える猶予も与えてはもらえない。
ただ選択の時だけがじりじりと音もなく迫ってきて、焦燥感だけが胸の内を焦がす。
「だからさあ」
自分一人では、その嫌な感覚に耐え切れなくて、僕は御影に電話をかけていた。
「俺はお悩み相談窓口じゃないんだって、何回言ったら分かるんだよ」
「他に相談できる相手がいないんだよ」
電話の向こうで、御影は大きくため息を吐いた。
「ったく、しょうがないやつだな。言っとくけど、大した助言はできないからな。最終的に決めるのはお前なんだから」
「分かってるよ」
こうして聞いてもらえるだけでも、気持ちが少し楽だった。
昨晩、銀山さんから話を聞いた後、僕は御影と織江さんに連絡をいれて、一人でホテルを後にした。
駅までの道すがらも、電車の中でも、家に帰宅するまでの帰路でさえ、頭の中は四季宮さんのことでいっぱいだった。
今日を逃せば、四季宮さんは銀山さんと結婚してしまう。
止めたい。彼女を連れ去りたい。
だけど、それは非現実的なことでもあった。
僕は平凡な一介の高校生で、自分でお金を稼いだことも、働いたこともなかった。
自分一人ならまだしも、もう一人、誰かと寄り添って、隠れて生きていくなんてことができるはずもない。
なら、他に方法はあるだろうか?
逃避行ではなく、四季宮さんをあの状況から救い出すための、画期的な方法はあるだろうか?
否、と心の中で即座に否定する。
僕自身の力はちっぽけだ。そして、彼女の家庭環境を変えるためには、とても大きな力が必要だ。
けれど、例え学校の先生に相談したところでなんの意味もないだろう。例え通報したところで、警察だって動いてくれないだろう。
僕個人も、学校も、警察も、ありとあらゆる個人と組織が、彼女を助けるための力と動機をもっていない。
八方ふさがりだった。
僕は彼女を救えない。
何度考えてみても、同じ結論にたどり着き、堂々巡りを繰り返す。
「まあ、難しいだろうな」
僕の心のうちを話し終えると、御影も言った。
「そこまで話が進んでると、俺たちにできることは何もないだろうし」
改めて他人の口から聞くと、心にくるものがあった。
それと同時に、納得もした。
僕に彼女は、救えない。
「ありがとう、御影。やっぱり僕は――」
「でもさあ……。大事なのってそこじゃないよな」
「……え?」
「確かにお前は、四季宮さんを助けるための、具体的なアイディアもプランもないかもしれない。そもそも高校生の俺たちにできることなんて本当に限られてて、狭い選択肢の中から必死こいて選んだものでも、大人たちに軽くつぶされちまうかもしれない。だけど」
一拍置いて、続ける。
「お前は助けたいんだろ?」
「……」
仮に。
四季宮さんが、この結婚を喜んでいるのならば、当然僕が口出しすることなんてなかったと思う。
だけどあの日、銀山さんと初めて僕が出会った日。
あるいは、修学旅行で銀山さんについて語った日。
そして何より、昨日のクリスマスパーティーの会場で。
四季宮さんは一度たりとも、心から幸せそうな顔をしていなかった。
初めて、彼女の弱音を聞いた。
だから僕は、彼女を助けたいと思った。
あの絶望的な環境から、救い出したいと願った。
「だったら、やればいいじゃん」
「……答えが見つかってなくても?」
「んなもん、後から考えろ」
「資格がなくても?」
「なんだよ資格って。どんな試験に合格すりゃ配布してもらえんだよ」
「ゴールが全く見えなくても?」
「走り出したら見えてくるかもしんねぇだろ。なんでもかんでも、最初からゴールが見えてるとは限んねえよ。走りたいと思うかどうか。そこが一番、大事なんじゃねーのかよ」
洋服掛けにかかった青藍色のマフラーを見る。
次いで、その下に置かれた小洒落た紙袋に目が移る。
昨晩は気付かなかったけれど、実はあの中にはマフラー以外にも一枚の手紙が入っていた。
短い文面で、端的に。
四季宮さんの少し丸っこい、整った文字が並んでいた。
今までありがとう!
真崎君には、ほんとにほんとに、たくさんの思い出をもらいました。
もらってばっかりで、申し訳ないくらい。
だからせめて、私からはマフラーを送ります。
実は手編みなんだよ? びっくりした?
首元あったかくして、体を大事にしてね。
四季宮茜より
追伸
そうそう!
しつこいようだけど、しゃべるときは句読点をしっかり打つように!
真崎君のお話、ほんとに面白いんだから。
聞き取れないの、もったいないよ!
何を言ってるんだろう、四季宮さんは。
もらってばっかりで申し訳ない?
思い出をたくさんありがとう?
そんなの全部。
全部、全部――
「まあ、偉そうに何言ってんだって思うかもしんないけどさ。要するに俺は、少しは自分の気持ちに正直になった方が――」
「御影」
僕のセリフなのに。
「ありがとう」
「……腹くくったんだな」
「うん」
何の準備もできていない。
一歩先に広がっているのは、苦難だらけの不安定な道のりだ。
それでも彼女の力になりたいと、混じりけのない気持ちで思うから。
「今日、四季宮さんと逃げようと思う」
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