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右腕を動かすと、じゃらりと鎖の音がした。
手首を締め付ける金属の輪は、最初こそひんやりとしていたが、今ではもう僕の体温と同じくらいになって、さながら最初からそこにあったみたいに錯覚する。
一方の左手はと言えば、柔らかくしっとりとした手を握っていた。握られていた。てのひらが汗ばんできた気がして、手をはなして寝間着でふこうとすると、
「だめ、はなさないで」
数十センチ先で僕を見つめる四季宮さんが、透き通るような声で言った。
暗闇の向こう、明かり一つ付いていない部屋の中で、だけど四季宮さんの顔だけは、とてもくっきりと視認できた。四季宮さんが動くと、僕が被っている布団も動いた。シーツを通して伝わってくる彼女の挙動一つ一つが、僕を捉えて離さない。
互いの片手を手錠で縛って、もう片方の手を握り合って、僕らは二人、布団の中で向き合っていた。
事のきっかけは、そう。
お互いにシャワーを浴びて、一息ついて、さあそろそろ寝ようか、という時に起こった。
『手錠、忘れちゃった』
ホテルにしつらえられた、僕と同じ柄の寝間着に身を包み、四季宮さんは眉をハの字に下げてそう言った。
『一つもないんですか?』
『スペアで持ち歩いているのが一つだけあるんだけど……』
机の上に置かれた、どこか他人行儀な手錠を眺めながら、思案する。
四季宮さんが、寝るときに手錠が三つ必要なことは、修学旅行の一件で僕も既に知っていた。
手錠一つだけでは、両手か、両足か、そのどちらかを縛ることしかできない。
『どうするんですか?』
『んー、どうしよっかなー』
事の重大さとは裏腹に、四季宮さんは軽い口調で手錠を取り上げた。
そのまま人差し指を輪っかに通して、手錠をくるくると回しながら、部屋の中を眺める。
設えられたベッドには柱がなく、他にも括りつけられそうな場所はない。
縛るとしたら、やはり優先順位が高いのは両手だろうか?
しかし、自由に歩ける状態は、それはそれで危険な気もするし……。寝ないというのも一つの選択肢だけれど、もし寝てしまったら、というリスクが付きまとう。
『真崎君、左手出して』
『……? はい』
『えい』
かちゃん。
僕の左腕に手錠がはまった。
流れるような動作で、そのまま四季宮さんはもう片側の手錠を自分の右腕にはめた。
『これでよし』
『……何してるんですか?』
『これなら私が自遊病を発症しても、真崎君が気づいて止めてくれるでしょ?』
私の命は、君に預けた! と、彼女はまるで自分の荷物でも預けるみたいに気軽な口調で僕に自分の命を託し――今に至ると言うわけだ。
確かにこれなら、彼女が動いたときに僕が起きることができるかもしれない。だけど、確実じゃない。もし僕が気づかずに寝続けたらどうするつもりなんだ……?
「大丈夫大丈夫、念のために、ほら。左手もちゃんと握ってるし。私、普段は寝相いい方だし? きっともぞもぞ動いたら気づくって」
「正直、めちゃくちゃ不安です……」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよー。不安なら、ついでにハグもしとく?」
「し、しません!」
そんなことをしたら、一晩中寝るに寝られないじゃないか。
いや、むしろその方が、四季宮さんの安全は確保されていいのか……?
「なんだ、残念」
僕と違って、四季宮さんは大層リラックスしているように見えた。
死が怖くない、というわけでは、もちろんないだろう。もしそうなら、手錠で自分を縛り付けなんてしないはずだ。
だからきっとこれは、慣れ。
毎日襲い掛かり、彼女に死を突き付ける、理不尽な病への慣れが、彼女をこうさせているのだろう。
「ぷにっとな」
「うっ」
鼻を押されて、我に返る。
四季宮さんの右手は、まるでそこが定位置であるかのように、するすると僕の左手の中に納まった。
「あはは、元に戻った」
「何がですか」
「こわーい顔してたから、鼻押してみたの。もう一回押したら、また表情が変わるのかな?」
「そんなわけないでしょう、ロボットじゃないんですから……」
「分かんないよー? そりゃそりゃ!」
「や、ちょ! やめ……」
つんつんと鼻を押され続け、僕はたまらず顔をそらす。
意外と変わるー、ここがスイッチなんだねー! と楽しそうに笑う四季宮さんを視界にとらえた瞬間。
目の奥で線香花火が散った。
「……え」
目の前に広がったセピア色の光景に、僕は思わず言葉を失い――
「……真崎君、どうしたの?」
体を反転させて、彼女の背を向けた。
つながった右腕はそのままに、左手をはなしてそっぽを向いた僕に、四季宮さんは問いかける。
「もしかして、なにか視たの?」
「……知りません」
「何、視たの?」
「知りません」
「ねえ、真崎君」
するりと彼女の身体が忍び寄る。
背中に顔が押し付けられる。
「ちゅー、しよっか」
「――っ」
六十秒先の未来で、僕たちはキスをしていた。
顔を離した後、彼女ははらはらと涙をこぼした。春先に散る、桜の花びらみたいな涙だった。
口は小さく動いていて、何かを喋っているようだった。
幻視の力では、会話の内容までは分からない。
だけどキスをすることで彼女が泣いてしまうのであれば、僕は。
「しません」
「けち、減るもんじゃないのに」
あの日、階段下で不覚にもキスをしてしまった時と同じ言葉を口にした。
思えばあの時から、ずいぶんと状況が変わったものだと、しみじみ思う。
「減らなかったらなんだってオッケーってわけじゃないですよ」
「むう、正論だなあ」
手錠の音がして、僕の右手を、四季宮さんの両手が包み込んだ。温かい。
「一つ、聞いてもいい?」
「……なんですか?」
「真崎君はさ、どういう理屈で幻視が起こってると思ってる?」
「相変わらず、唐突ですね」
「いいからいいから」
僕は少ししてから、答える。
「考えたこともありませんでした。理屈なんてあるんでしょうか?」
「ふふ、どうだろうね。でも、私には仮説があるよ」
「仮説ですか?」
「うん」
四季宮さんは言う。
「私はね、真崎君の幻視は、優しさから生まれてきてると思ってるんだ」
ずいぶんと、ふんわりとした表現だった。
「君の幻視は、不規則に起る。だけどもしかしたら、相手によって偏りがあるんじゃないかな?」
彼女は続ける。
「一緒にいた時間が長い人ほど、その人のことを良く知っているほど、幻視が起こりやすいんじゃないかって、私は思うんだ」
言われてみれば、たしかに僕の幻視は、人の行動を予測することばかりだ。
突然雨が降りだす様子を視たことはない。
鳥が羽ばたく未来を視たこともない。
「だからね。真崎君の幻視は、君がその人の先の行動を想像して、危険な目に合いそうだと思った時にだけ、現れるんじゃないかな」
例えば。
クラスメイト同士がじゃれ合っている時に、近くに花瓶が置いてあって。いつもその辺りに肘を置いているから、花瓶が窓から落ちる幻視を視た。
落ち着きのないクラスメイトが、信号が赤になってもわたるクセを知っていたから、交通量が多い道路で轢かれる幻視を視た。
階段のワックスが塗りたてなのを知っていて、四季宮さんが駆けてくる音が聞こえたから、彼女が滑り落ちる幻視を視た。
「観察眼と、想像力。そして何より……危険を察知したり、守りたいと願う、君の優しさ。それが、幻視の根源なんじゃないかな」
「……そんな大層なものじゃないですよ」
「どうだろう。でも、不思議な現象にも、きっと必ず理由がある。原因がある。私はそう思うんだ」
彼女の説は、もっともらしく聞こえた。
だけど僕の幻視は、とてもくだらない、本当にささやかな未来の光景だって視せることがある。四季宮さんの仮説は、完全には当てはまらない。
結局これは、答えのない禅問答のようなもので、意味のないやり取りだったのだろう。
「だからさ」
そして、もし――
「真崎君は優しいね」
もし、この言葉を口にするための過程だったのだとすれば。
ずいぶんと回りくどいやり方だったように思う。
「そんなことありませんよ」
「優しいよ」
それから、どれくらい経ってからだろうか。
背中越しに四季宮さんの静かな寝息が聞こえてきたので、僕はそっと寝返りを打って、彼女の左手を握った。銀色のブレスレットが、常夜灯の光を反射して鈍く光る。
ふと、彼女の頬に濡れた痕があったので、そっとなぞってみる。
正解は未だに見つからない。
今の僕にできるのは、ただこうして結論を先延ばしにして、彼女と逃げるだけ。
「僕は、どうすればいいと思いますか……?」
口の中で呟く。
もちろん答えはなかった。僕の中にも、彼女の中にも。
ぽすんと枕に頭を落とし、四季宮さんの寝顔を見る。
こんなに間近で見つめるのは初めてだった。
滑らかな肌、頬にかかる液体のような黒髪、長いまつげ、美しい鼻筋、薄桃色の艶やかな唇。
そのどれもが、嘘みたいに綺麗で、整っていて、こうして同じ布団で寝ていることが、信じられなくなる。
四季宮さんの表情はとても穏やかで、まるで自遊病のことなんて知らないみたいに、静かに寝息を立てている。
「……?」
一瞬、頭の中で疑問がわいた。
けれどそれは僕が形を捉える前に、ふわふわと霧散し、消えて行く。
残ったのは、どこかすっきりとしない、何か大切なことを見落としているような、違和感。
本人だけがこの病気に慣れてしまい、死に向かう病をちっとも恐れていないように見えること。
自遊病という厄介極まりない病と、上手に共生していること。
周囲だけが病について騒ぎ立て、四季宮さん自身は一向に気にしていないように見えること。
今更ながらに、そこにちぐはぐさを感じた。
「……考えすぎかな?」
いくら考えても、違和感の正体は思い至らなかった。
やがて睡魔がゆっくりとやってきて、僕の瞼を重くした。
次に目を開けた時には、朝になっていて僕は慌てて四季宮さんの姿を確認した。昨晩と変わらず、すーすーと寝息を立てている。
「……良かった」
僕はほっと息を吐いて、ぼすんと枕に頭を落とした。
その晩、自遊病の発作は起こらなかった。
そういう日もあるのだと、僕は勝手に納得した。
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