甘さと苦さ

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八月の真ん中はお盆だ。 実家に兄や、親戚が来るというので、頻繁に顔を出すことになる。 母の手伝いをして、お料理をしたり、お墓参りに行き、挨拶に訪れる帰省した親戚に挨拶し、もてなす。 私も東京にいた時には、お盆休みかお正月に帰省していたし、イベント自体は子供のころから、とても楽しい。 実家の客間にご馳走がならび、おばさんや従兄が挨拶に来る。 ただここ数年は毎回、「葵ちゃん、どうなの?いい人は?結婚は?」というのを一通りやらないといけないのが、少し面倒になってきている。 今年は、それに、壮大な「家、買ったって、どうしたの?」の一節が付け足された。 「古い家なんか、大丈夫なの?」 「東京の仕事はどうしたの?」 「いい人はいないの?」 全部予測はしていたから、のらりくらりと、私に向けられた質問の波を飛び越えていく。用意してある言葉を適度なお愛想に包んで、渡していく。 私は、これくらいで致命傷を負うほど子供でない。 ただ、すこし心は擦り切れる。 摩耗する。 地元は好きだけど、絶対に地元を離れないといけないと思った、その何かに襲われる。 そして、地元に戻ってきたことで、さらに鋭利になった、それが刺さる。 ―お利口な子だったのに、どうしちゃったの。 ―やっぱり女の子が良い大学に行ったって、駄目よ。 ー塾の先生は、ちょうど良いじゃない。女の子はそれくらいが一番よ。 そんなことは思っていないかもしれないし、心配してくれているだけなのだろうけど、私は少しひねくれているから、親戚の前で、愛想よく笑いながら、飛び交う言葉の行間の暗い部分を見つめている。 ただ、そこに座る、父に申し訳なく思う。 父には「女の子だから」って、言われたり、制限された覚えがない。 自由にさせてくれた。 でも私は父や母が、こういう集まりで親戚に誇れるような飛びぬけて特別な何かにはなれなかった。 それは、自分の才能や努力、度胸の足りなかったゆえだと心得ているつもりだけど、今、自分が必死に選び、作り上げようと思っている生活や生き方が、結局、お仕着せの「女の子なんだから、適度に仕事をして、良い人と結婚すればいい」というレールの上にあると思うのは癪に障った。 私は勘違いのプライドがまだあって、少し、ひねくれている。 小さいなりに、自分の家を買ったのは、そういう子供っぽい抵抗の現れなのかもしれない。
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