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「今日はわざわざ、ごめんね」
少し砕けた様子で加藤さんは話し出す。
「どう?実家での生活?」
実家で暮らしている訳ではないけど、訂正するのも面倒くさい。
「そうですね。徐々に仕事も家の事も落ち着いて、楽しくなって来ました」
「そう、良かった」と微笑んでいる。
この人に、葵は一人で生きていける、と言われたのは一年半年前位の事だ。
「加藤さんこそ、お元気でしたか?」
そう返すと、「おかげ様で」と、どうでも良いような返事が返ってきた。
世間話しか無いなら、なぜ引き止めたのだろう。
私から、そういう気配が出たのかもしれない。
少し困ったように、ネクタイを触った。
「佐藤さん、今晩、時間ある?」
「すみません。今日は友人の東京観光に付き合うことになっていて」
誘われた事に少し驚きながらお断りした。
別れてから、同じ会社で働きながらも、一度も社外であったことは無い。
「そっか。ちょっと会社で言うようなことじゃ無いけど、良い?」
軽くうなずくと加藤さんはしっかり私を見た。
「葵には、本当に申し訳無かったと思ってる」
そう切り出されて、私は狼狽えた。
一気に喉が締まってしまう。
「え、何ですか急に」
急に名前を呼ばれた事に驚きながら、なるべく社会人モードで切り返した。
「俺、あの時、色々、間違えて、嫌な思いをさせたと思って」
どういう事だろうか。
でも、答え合わせしても、今さら、どうしようもない。
「私も至らない所が多かったですから。謝らないで下さい」
「いや、ちゃんと話しておくべきだったと思う。佐藤さんが真剣に仕事しているのを軽く見てた訳ではないし、最後もちゃんと話し合わないで、申し訳無かった」
膝の上で手を硬く握る。
あの時、私が泣いた分くらいは、彼なりにちゃんと考えていてくれたのだろうか。
私が何も言えないでいると、加藤さんはそのまま続けた。
「正直、俺、あの頃、ただ佐藤さんに無理してほしくなかったし、何なら、あのまま付き合って結婚したら、仕事辞めれば良いって思ってた」
びっくりしすぎて顔をあげた。
少し照れたように、懐かしいように微笑んでいる。
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