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三枚目
『しかし、それも疑問に思うことさえ忘れていました。何が真実で何が嘘なのか。
私は、人生でたった一度だけ過ちを犯しました。
愚かにも、人の物を盗んでしまったのです。ほんの出来心でした。ある人が、自分には手に入れられないほどの高価な腕時計を身に付けていたのです。
私には一生手に入らない、なぜこの人にはこんな贅沢なことが出来るのだ。
そう思ったら、だんだん腹が立ってきました。しばらくの間そっと隠しておいて、時期を見て密かに戻そうなどと妄想しておりました。
ただの気紛れな幻影を追い求めていただけだとは思いましたが、そのような機会がすぐにやってきたのです。
その人が時計を外しその場を離れた時がありました。きっとその瞬間、悪魔が私に囁いたのでしょう。私は周囲を確認して、そっと手を出しました。
手にしているうちに、これが欲しい、自分のものにしたい、という欲望が溢れ出してきました。そしてジャケットのポケットに隠しその場を離れてしまいました。
その瞬間をSは見逃さなかったのです。
Sはじっとこちらを見て、その場は何も言わず去っていきました。
私は気が動転して、何も出来ませんでした。その腕時計を返せないまま、時間だけが過ぎていきました。
腕時計を失くした男は(実際には私が取ってしまったからなのだが)本当に困った様子で、そこら中を探し回ったり、いろんな人たちに聞いて回っているようでした。
見つかるはずはありません。何せ、私が隠し持っているのですから。今さら告白することも出来ません。
私は後悔しました。出来心とはいえ、罪を犯してしまったのですから、当然です。
出来ることなら早く忘れて欲しい、そんなことさえ考えるようになっていました』
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