たとえ、鈍色の世界でも

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 同じベットで横になっていても、背を向け合っている私たち。笑い合うどころか、ほとんど会話もなくなっていた。  夜の凍りつく空気が毛布の隙間へ入り込んで、さらに心を冷やしていく。 「……おはよう」  朝起きて、階段を降りてきた夫へ声を掛ける。しばらく固まって、数回瞬きをした彼が「おはよう」と口を開いた。  驚いた、と言う表情で私を見ている。朝食の支度が整ったダイニングテーブルを見て、もう一度ぽつりと声が溢れた。 「……ふたつ?」 「だって、あの子はもう……食べないでしょ」    鏡の前で、最後に話した日。約束したから。  彼岸世界では、ルールがあるらしい。  人間界とは比べ物にならない速さで成長して、最後の選択肢を与えられる。  もう一度、人間として生まれ変わりたいか、彼岸世界に残りたいか。  そうして、また赤ん坊へ旅立っていく者も多いそうだ。 『さくら、いつも見てるから。ママ、頑張って。パパ、頑張ってって』  子どもに励まされるなんて、母親失格だ。そう思う私へ手を伸ばして、 『これ、ママが持っててね。さくらがいなくても、ママが寂しくないように。さくらのお守り』  鏡面が波打って飛び出して来たのは、あなたが気に入っていたディオールの口紅だった。  再び手の中に戻った口紅を、そっと胸に抱く。離したくないと思った。  このまま、時間が止まってしまえばいいのに。  ふとあなたのまつ毛が濡れていることに気付く。  我慢していたのは、私だけではなかった。  この子こそ、ずっと寂しさを抱えながら気丈に振る舞っていたの。  ごめんね、さくら。ずっと周りが見えていなくて。もうこの世界にはいられないあなたを、離してあげられないで。 『ママ、そろそろお別れだね』 『……そうね。もう、時間だね』 『いつも寝る前に歌ってくれてた、ゆりかご歌って?』 『いいわよ』  朝のない世界に住むあなたへ。あの頃を思い出しながら、優しく包み込むように歌う。  噛み締めるように一言ずつ、嬉しそうな顔を見ながら。  そして、歌の終わりに。 『……おやすみ、さくら』 『おやすみ、ママ』  愛らしい笑顔を残して、あなたは消えて行った。  それから、二度と鏡の向こう側が開くことはなかった。
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