ゲス野郎パイなすび

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 彼女は、ありがとうを言わない。  アイスをおごったときも、にかっと笑うだけで、めったに「ありがとう」と声に出しては言わなかった。  あるとき、駅の近くを歩いてたら突然、なあなあ、うちら、ありがとうの代わりに「ゲス野郎」って言うのっておもしろそうちゃう? とか言いだした。僕は、はあ? と思いながらも、うーん、でも「パイなすび」の方がええんちゃう? と答えて、なに、パイなすびってって二人でゲラゲラ笑った。じゃあ「ゲス野郎パイなすび」にしようって、なんやそれ、なが! て、またゲラゲラ笑って、そういうルールになった。  それからは、僕がこっちのアプリの方がいいって教えたときも、チャリで迎えに行ったときも、彼女にやたら花の匂いのする石鹸もらったときも、銀色のサンダルかわいいやんって褒めたときも、ゲーゲー笑いながら「ゲス野郎パイなすび」って言い合った。  それでとうとう僕がバイト先でお客さんに「ゲス野郎パイなすび」って言ってしまって、意味がわからなかったことを祈りながら、必死で「ありがとうございました」って言いなおしたって話をした日に、お母さん死んだときな、と、彼女が急に言った。  死んでるお母さんに向かってお父さんが「ありがとう」って言って、うち、小2やったから、ちゃんと意味わからなくて。それから「ありがとう」って聞くと悲しくて。言えなくなった。言わないとおかしいときは、がんばって言ったけど。  でも、なんか、大丈夫になってきた。  なあなあ。  なに。  いつかさ、うちがババアになってどっかでコドク死しそうになってたら「ゲス野郎パイなすび」って言いに来てくれる?  なんでコドク死やねん。  来てくれる? どっち?  ・・・うん。わかった。行くやん。  彼女は、にかっと笑って、ありがとう、って言った。
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