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03
一日が巡り、散歩の時間が迫ると、ジャックは落ち着きなく少年の前を飛び跳ねていた。挙句には、少年がもたもたと散歩の準備をしていると、ジャックはリードを咥えて少年の前に置いた。少年は思わず笑みをこぼした。
「ジャック。どうしてそんなに慌てているんだい?焦らなくても、ちゃんと連れて行ってあげるよ」
そう声を掛けても、ジャックは落ち着かなかった。
ジャックは確かに散歩は大好きだし、雪が降っている日にも、時間になると少年を散歩に引っ張りだすような子だ。しかし、ジャックは今までにこんな急かし方をしたことはなかった。少年が散歩の準備を整えるまで、ジャックは玄関に座って少年を静かに待っているのが常だった。
少年は跳ね回るジャックの表情を見ていると、何となくその魂胆が分かったような気がした。
ジャックは、あの家に行きたいんだ。
昨日の様子からしても、間違いないだろう。
少年はジャックの気持ちが分かりながらも、あの家の前を通るのを少し躊躇った。何も意地悪をしようとしているのではないのだが、あの家には積極的には近づきたくなかった。そこには、何故一日であんなものが、というのもあれば、あの家そのものに対する不気味さもあった。
少年はジャックには申し訳ないと思いながらも、あの家の前を通らないように、いつもとは違う別の道にしようと思ったのだが、いつもは通らない筋に入ろうとしたところで、ジャックは抵抗し、その場に座り込んだ。
そっちじゃない、と言いたいのだ。ジャックはいつもの散歩道を完全に把握しているから、道を逸れればあの家に辿り着かないことくらいお見通しなのだった。
少年は困ったが、無理矢理に引っ張るのも可哀想だと考え、
「やれやれ、今日だけだよ」
と言って道を戻ることにした。ジャックは大きく尻尾を振った。
ジャックは洋館に着くなり、ゆっくりと門前に腰を下ろし、家を眺め始めた。一体、何がこんなにジャックの興味を引くのだろうか。少年は改めて洋館を眺めた。
重厚な玄関扉。モダンな黒い屋根。開放的なバルコニー。月明りが差し込む棺桶の形をした窓。
まさに、洋館だ。屋敷だ。少年はそう思った。昨日はぼんやりとしか見ていなかったが、こうしてじっくり見ると、確かに不思議で高級感のある造りだ。少年が住む街はそこまでの田舎というわけでもないが、立ち並ぶのはどれも代り映えしない家ばかりだった。その中で、この洋館は少し浮いているような気もする。
少年はこの家に美を感じた。同じ感性でもって見るのはおかしいが、ジャックのこの家を見たいという気持ちが、少し分かった。
確かに、この家は美しい。それは、少年が自分の家にあまり良い印象を抱いていなかったことにも由来するかもしれない。少年の家は築数十年の古い家であり、ただ古臭いというだけで、珍しさも面白さもないのだ。
そして、新鮮さも感じた。少年は絵を描くのが好きで、よく家の絵を描いたりもするのだが、こんな家は描いたことも想像したこともない。
こんな立派な洋館に住めたら、どんなに幸せだろうか。
少年の心には、自然とそんな言葉が浮かんでいた。
この家には、外からでも沢山の部屋があるのが分かる。二階にはそれぞれの広い寝室があるのだろう。今の少年の部屋など、あまりに狭くて、何もできやしないのだ。風がよく通って心地よい日などは、バルコニーに椅子をこしらえて読書をすることだってできる。
まさに、夢の家、といったところだろうか。
少年は暫くの間、我を忘れて洋館の虜になっていた。
月明かりに妖しく照らされた洋館を、舐めまわすように少年は眺めていた。
少年の視線が二階右の窓に差し掛かった時だった。
一瞬だが、黒い影のようなものが、見えたのだ。明らかに自然的に生まれる影とは異なった、捉えようによっては”人影”にも見えるような黒い影が、わずかに月明りに晒されたのだ。
少年は度肝を抜かれた。
この家には、誰かがいるのかもしれない。
一瞬だけ影が見えたということは…
家をまじまじと眺める少年を、窓から覗き見ていたのではないだろうか。
少年は背筋が寒くなるのを感じた。
洋館に抱いていた美しさは立ち消え、恐怖だけが少年の頭を巣食った。
「帰ろう、ジャック」
少年は静かにそう言った。
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