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揺れる想い
午前中に広島に着き、個人戦出場者に充てられた県立高校の体育館で午後から竹刀を握っていた俺は、練習時間ぎりぎりまで居残り、五時半にようやく宿泊先になっているホテルに到着した。
その間、千藤監督は、選手登録の確認と打ち合わせの為、ほとんど試合会場にいた。
玉竜旗大会でも思ったけど、監督は本当に試合慣れしている。
それに全国レベルで剣道に携わっている大会関係者とも随分懇意だ。
監督のフットワークがこれほど軽いのは、全国規模の大会に出場する他校の監督に会う楽しみはもちろん、連れてくる剣士にも興味があるからだと思う。
監督自身、俺が部内で孤立しかけた時、剣道界で後輩の指導に当たる立場だと話していたし、将来有望な選手の名前は百人以上頭に入っている、とも言っていた。
前任の監督のそんな話は聞いたことないし、自分から積極的に会場に行く姿なんて一度も見た事なかったから、すごく意外に感じた反面、同じ道を進もうとしている俺にとっては非常に得難い、『生きた教本』そのものという感じだ。
案内係りの人が運んでくれたスポーツバッグと防具バッグをベッドの足元に置き、唯一自分で持って上がった細長い袋から、再び竹刀を取り出した。
これがあっての俺だ、大事な大会前に手放すなんてできない。
ツインベッドのいたってシンプルな部屋は、試合前の緊張感をあまり感じさせない。
剣道の防具がなければ…同室が千藤監督じゃなければ、友達と旅行にでも来た気分だ。
中学の時、一度だけ経験した個人戦の全国大会は、会場が隣の県だったんで宿泊は必要なかったし、遠征でもホテルなんてありえなかった。
部屋は狭いし、天井も低いから当然素振りは無理だけど、明日はまた今日と同じ練習場で竹刀に触れる。
今は少しでもこれを握っていたい。その方が落ち着くし他の事を考えなくて済む。
北斗の悩みと、加納君の北斗への気持ち…というより二人の関系。
この二つを抱えたまま全国大会に臨むのは、俺の方が苦しすぎた。
加納君の事は俺が口を挟める問題じゃないけど、北斗の悩みは解消してやれる。
もっと正確に言えば、俺にしか解決できない。
一緒に寝ようと言い出したのは俺。
だから、北斗のプライベートをしっかり確保する為に……ストレスを感じず自分の家以上にゆっくり寛げるよう、俺から言わなければいけないんだ。
一時間後、監督と夕食を取り、明日に備えての簡単なミーティングを行った。
その後、大浴場に誘われたのを丁重に断って北斗にメールを入れた。
『直接話したい事があるんだ』
いつもの、用件だけの簡単なメール。
内容も入れかけたけど、知ったら電話してこない気がして省いてしまった。
向こうー野球部の宿泊先ーがどういう状況になっているのかわからないから、直接電話はできない。
メールを見た北斗が時間を作り、掛けてくるのを待つしかなかった。
ベッドのサイドテーブルにホテルのメモ帳を見つけ、一枚破って、ガラス張りの窓の手前にセットしてあるローテーブル用のソファーに腰掛けた。
途中で監督が帰ってきたら話ができなくなってしまう。
そう思い、北斗からの電話を待つ間に、胸ポケットから愛用の万年筆を取り出して監督への置き手紙を用意した。
窓の外、賑やかな…とまではいかないけど、眼下に煌くネオンを見下ろしていると、しばらくして電話の呼び出し音が鳴った。
相手を確認して通話ボタンを押す。
『もしもし』
先に、その声が聞こえた。
「北斗? ごめん、急に」
『いや、かまわないけど、どうしたんだ? 何かあったのか?』
心配しているのが声色で伝わる。それだけで何だか泣きそうになった。
「――ここだとゆっくり話せないから、場所変える。ちょっと待ってて」
用意したメモ書きを目に付き易いローテーブルの上に置いて、カードキーを持った。
部屋を出て、エレベーター横の喫煙ルーム兼談話室みたいなところに行き、再び俺から掛けなおすと、コール音がするかしないかですぐに北斗が出た。
『何、部屋に戻ったのか?』
「逆、部屋から出てきた」
『今どこにいるんだ?』
「ホテルのエレベーター横の談話室みたいな所」
『ホテル!? 贅沢な奴、こっちは民宿だぞ』
「監督と二人でワンルームツインベッドの、どこが贅沢なんだ?」
『……それもそうか』
少しだけ間が空いて、いつもの穏やかな声が耳元で聞こえた。
『緊張、してるのか?』
「それはない。けど、…ちょっと、落ち込んでる」
『珍しいな、もしかして愚痴の電話か?』
北斗の口調にからかい混じりの色が乗る。
どんな顔で話しているのか、その表情が何となく目に浮かぶ。
ただ、これから打ち明ける内容を思うと明るく装う事はできなかった。
「違う。北斗に…試合前に、どうしても言っておきたい事があって」
『俺に? 何? なんか怖いな。初戦突破は叶えてやりたいけど、はっきり言って自信ないぞ』
弱気な台詞に反する軽やかな声。
北斗の悩みとは別に部の雰囲気のよさが伺える。
北斗自身、加納君に直接会った事で、代理での出場へのわだかまりや、後ろめたさみたいなものが一応なくなったらしい。表面上はリラックスしている。
問題を抱えている事すら、俺にはおくびにも出さない。
「そんなんじゃない。北斗の悩み事、俺 わかったんだ」
『えっ!?』
明るく話していた声音が、急降下した。『――誰に聞いた?』
「誰にも。でも、北斗の様子見てたらそれしか考えられない。俺に言えないのも当然だって気付いて……だから、俺が、その悩みから解放してやる」
『ちょっ…待ってくれ。そんな話だなんて思ってなかったから心の準備が……』
「止めるなよ、せっかく一大決心したんだ。今言ってしまわないと俺の心が揺らぐよ」
『言うって、…何を? 瑞希、何か誤解してないか?』
「してない」
強く言い切って、携帯を握り締めた。「俺、これから北斗の部屋に入り浸るの控えるし、夜ももう一緒に寝ようなんて言わない。だから――」
『なん……』
「だから、北斗のプライバシー、俺も尊重するから」
『おい、瑞希』
「だから、『出て行く』なんて……言うなよぉ」
最後の方は半泣きになった。
窓の外の見慣れない夜景が、じんわりと滲む。
誰が来るかもしれない喫煙ルームで泣き顔なんてみっともない。
そう思い、浮かんだ涙を手の甲でごしごし擦っていると、
『―――俺、お前ん家出て行くとか、一言も言った覚えないぞ』
呆れたような声が届いた。『それに、何でそれが俺の悩みの解決になるのか、さっぱりわからない』
「気遣ってくれなくていい。北斗が…夜、ゆっくり休めてないの知ってたのに、俺、居座り続けてたし、クーラーくらい暑くなったら勝手にかけて寝るよな。けど、俺が淋しかったから……一緒にいられるのが嬉しくて、北斗に甘えてたんだ」
『……俺、瑞希に甘えられてたのか?』
「うん。…少しでも長く北斗といたくて、プライベートな時間、失くさせてた」
言ってしまっても、心は少しも軽くならない。
これからの事を思うと、また一人に戻る淋しさで胸が一杯になって、もっと苦しくなった。
『で? それが俺の悩みとどう繋がるんだ? 睡眠不足で疲れが溜まってるだろうとか、思ってるのか?』
「違う。北斗の体力は並みじゃないの知ってる。そうじゃなくて、そんな事がストレスになってるんだろ? やっと気付いて、俺に相談できない理由も……納得した。言えるわけないよな、本人に向かって『お前の存在自体がストレスだ』なんて。だから――」
『瑞希、お前…やっぱ激しく誤解してるぞ』
「ウソだ。だって他に考えられない」
『考えられなくても! 俺の悩みはストレスなんかじゃないの』
「じゃあ何だっていうんだよ」
『……言いたくない』
「ほら、な? やっぱり俺に関係してるから言えないんだ。けど、もうそんな無理したり気を遣わなくていいから。……ごめん北斗。俺、ほんと鈍くて嫌になる」
『一人で勝手に完結するな! 何でそう思い込みが激しいんだ!? お前、明日から試合だろ? 俺の事はいいからそっちに集中してろ』
「無理だよ。どんな形でも北斗の足枷になんか絶対なりたくない。そんなの引きずったまま試合したって、勝てるわけない」
『それは俺も一緒だ。今は俺がお前の重荷になってるじゃないか』
「その言葉、そっくりそのまま北斗に返すよ」
『――わからない奴だな。俺の不調は瑞希のせいなんかじゃないって言ってるだろ』
「不調? 北斗、やっぱ調子悪いんだ」
『あ、……』
しまった…と言いたげな間。
それが北斗の言葉を現実のものに変えた。
しかも相当ひどい状態、みたいだ。
「どうしよう……もっと早く気付いてればよかった。何で…言ってくれなかったんだ!? そしたら俺だって――」
言葉尻が震えて、声が詰まる。
北斗の為と言いつつ、俺の安直な願望で負担を強いていたなんて……。
『馬鹿! そんな事で落ち込むなっ!!』
どっぷり後悔に沈みかけたのを察したのか、北斗が俺を叱りつけた。
『ストレスじゃない、スランプだ、ス・ラ・ン・プ! 何でか調子が出ないんだよ!』
「スランプ……ウソ、……ほんとに?」
北斗に関して言えば、一番無縁の言葉。
だと思い、全然、全く、頭になかった。というか、初めから除外していた。
半信半疑で聞き返したら、疲れたような声が携帯越しに響いた。
『この場面で嘘ついてどうするんだ、ってかあーもうっ、どうしてくれるんだ! お前の馬鹿馬鹿しい勘違いのせいで―――』
そこで、ふつっと声が途切れてしまった。
黙り込んだ携帯電話の向こう側、様子が見えなくて不安になる。
「………あの、北斗? ごめん、なんか…怒ってる?」
状況が把握できないなりに、取り敢えず謝って恐る恐る訊ねてみると、
『――フッ、フッフッフッフッ』
怪しく押し殺した含み笑いが、鼓膜を震わせた。
嫌な予感がして携帯を離しかけたのとほぼ同時に、『アッハ! アハハハハハハ』
大爆笑が弾けた。
ゲラゲラ笑い続ける北斗の何がそんなに可笑しいのか、皆目見当もつかない。
「ちょっ…と、…北斗?」
こんなパターンは過去にも何回かあった。けど、今回は……。
『――も、瑞希には参る。ハハ、苦しい……マジ笑い死ぬ、脇腹痛い』
「笑ってる場合じゃないだろ!『スランプ』ってどんな? 打てないのか?」
まくし立てて聞いてみても向こうからは笑い声しか聞こえてこない。
傍にいたらゲンコツで頭を殴りつけてるとこだ。
だけどそのバカ笑いのおかげで、ストレスからスランプになったんじゃないか、などという深読みは一切無用になった。
それどころか俺の存在が北斗のストレスになっている、という不安まできれいさっぱりどこかに吹き飛んでしまった。
だからと言って、とてもじゃないけど感謝する気にはなれない、このあまりな反応に、もう一度怒鳴りそうになって……ようやく笑いが収まったらしい北斗の、意外に冷静な声を聞いた。
『――打撃は変わらない、と思う。守備がどうも……今一、踏み込めないんだよな』
「……エラーが多い、とか?」
『いや、そこまで酷くはない。けど、いつもならグラブに入る球が、届かないんだ』
「それって――」
北斗が試合で魅せた、あの華麗な守備ができない、って事…なのか?
もしそれが事実なら、西城高校野球部には最悪の大問題だ。
あっ! だから監督が北斗を動かしたのか。
なら、野球部員に内緒、ってわけじゃないんだ。
山崎達も、全員かどうかはわからないけど、北斗のスランプに気付いてる仲間はいる、って事か。
けど、同行した俺が言うのも変だけど、加納君に会ったからといって、問題解決に至るようなヒントなんかなかったし、北斗自身、代理への拘りは消えたかもしれないけど、ただそれだけ。
それ以外、高見に帰るまで変わった様子は感じられなかった。
そんな事を思い出していると、
『ま、何とかなるだろ』
随分とお気楽な声が耳に届いた。
こっちはその原因を聞いた途端、手に汗がじっとりにじんできたというのに。
「――『何とか』って、北斗……」
『それより、さっき瑞希が俺に言いたかったのって、一緒に寝るのやめるって事だよな。あれ、本気か?』
しゃべりかけた俺を遮ってまで北斗が口にしたのは、俺が決死の覚悟で告げた、元通りそれぞれの部屋で寝る事への異議だった。
「え、うん。だって……」
『理由がストレスだと思ってたんなら、そんな心配無用だからな。俺も、少しでも長く瑞希といたい』
実際、七月に入ってから二人が一緒に吉野の家で過ごした日数は、十日にも満たなかった。
『甘えてたって言うなら、俺的にはすごく嬉しい』
「ほんとに?」
『ああ、スランプも忘れてしまいそうだ』
自分のプレーの不調より、俺と夜、一緒に過ごせるかどうかの方が問題だ、とでも言いたげだ。
『けど、もう少しわかり易い甘え方してくれたらもっと嬉しい』
明るく笑う北斗の声。
聞いている内に、心の底からの衝動に突き動かされ、普段なら…面と向かってなら、照れ臭くて言えない言葉が――零れ落ちた。
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