苦い回想

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   加納君の切なる要望で、北斗が梛君相手に投球を始めて十数球目。 「―――惜しいな」  彼の口から零れた独り言が耳に届き、その横顔に目を遣った。  開始早々ボロクソにけなす梛君とは対照的に、加納君の台詞はかなり甘い気がする。  俺には、北斗の何が「惜しい」のかわからない。  加納君のボールの方が何倍もすごく思え、ただ単に心から北斗を…北斗の投球を崇拝しているようにも映った。  だけど加納君の見ていたのは、投げられた球の球威じゃなかった。 「ワンちゃんの投球フォーム、相変わらず綺麗だ」  目を細め、感嘆のため息を漏らす加納君は、エースナンバーを付けた昔の北斗を重ねているらしかった。  そういえば去年田舎で北斗を相手にキャッチボールした伯父さんも、そのフォームに感心していたと思い出した。 「変な癖が全然ついてないから、気持ちが乗ってくれば球も走り出す。今は……ただ投げてるだけ、なんだよな」  誰にともなく…いや、この場合俺に聞かせてるんだろうけど、顔は正面を向いたままだ。 「義純もそれがわかるから、焚き付けようとして好き勝手言ってるけど、挑発もたいして意味ないな」 「え、そうなの?」  今一信じられなくて首を傾げて見せると、加納君があっさり頷いた。 「うん。あいつも反骨精神旺盛だから一筋縄じゃいかない…ってか、素直に相手を褒めたりは絶対しない」 「加納君にも?」 「ん~、あんま記憶にないなぁ。ま、あいつに褒められても今更鳥肌モンだし?」  本当に山崎とは全然違うみたいだ。  あいつはとことん甘い。 「鞭より飴でその気にさせるタイプだ」と、駿の事を心配していた俺に密かに漏らしたのは、昔バッテリーを組んでいた北斗自身だ。  面倒見のいい、世話焼き型。 「けどさ、それってものすごい強みじゃん」  山崎の事を考えていて、加納君の言わんとするところを読み違えてしまった。 「え、…梛君に褒められるのが?」 「ち、が、う」  う、一言づつ区切られるのって、結構堪える。  けど本人には何の含みもなかったらしい。 「義純にあれだけ言われても、全然変わらないワンちゃんの精神力が」  そんな風に、言った。「義純相手に堂々と投げるのもすごいけど、あそこまで言いたい放題されたら、怒るか萎縮するのが普通じゃん」  実際、目の前の北斗にも、その投球にも、ほとんど変化は見られなかった。 「なんだ、そっちの話。まぁあいつの神経は並みじゃないから」  それに運動神経も並みじゃなかった。神経系は全部『規格外』、って事か?   どんな人間なんだ、一体!?  唸り声を上げそうになった俺の横で、 「やっぱただ者じゃないよ、ワンちゃんは」  楽しげな口調なのに、何故か寂しそうな瞳で加納君が呟いた。 「――加納君は、北斗のどこに惹かれたの?」  単なる好奇心。  さっき、北斗の前でははっきりと言わなかった。ただ追いかけていたと明かしただけでその理由については口にしなかったから、ぜひ聞いてみたかった。  俺の知らない北斗の一面が見えるかもしれない、という期待もあった。 「それが…さ、投球よりもマウンド捌き、だったりするんだな」 「投げてた球じゃなくて?」 「そ。ワンちゃんのフィールダーとしての才能に一番最初に目を付けた敵は、俺だと思うぜ」  親指を立てて自分を指す。  わざと『敵』という言葉を使う辺り、どうやら加納君も協調性重視より、攻撃的な性格らしい。 「だから別に、ワンちゃんが打たれても全然構わなかった。逆にピッチャー返し喰らった時の処理とか、すっげワクワクした。『あの至近で、なんで反応できんだ!? ありえねえッ!!』って感じ? 見とれちゃって目が釘付け」  今度は自分の目と北斗を人差し指で繋ぐ。明るい笑顔。  けど、その表情はすぐに消えた。 「マウンドに立つ姿を見たのは、初めて会ったその試合の一度きりだったけど」 「そう……」 「それに、キャッチャーとの信頼関係も羨ましかったな」 「え? でも加納君だって最高に頼もしいキャッチャー、いるよ?」  俺達の目が、今度は当然、揃って梛君に向いた。 「義純とは中学で知り合ったんだ。ワンちゃんを見たのはそれより前。俺さ、こんな性格だから野球で気の合う奴…ってか、俺に合わせられる奴いなくて、ケンカばっかだった。キャッチャーに対しても、『何でそんな球が取れねえんだッ』って、すっごい俺様でさ。誰にも打たれるわけないって、守備練習も無茶苦茶いい加減だった。とにかく投げてればよかったんだ、ワンちゃんのプレー見るまで」 「そんなに感動したんだ」 「そりゃもう、目からウロコ」 「そうかなあ? 加納君の方が、絶対マウンド似合ってる気がするけど」  お世辞とかじゃなく、口からぽろっと本根が零れ、加納君が喉の奥で低く笑った。 「サンキュ。そう言ってくれるのは、すっげ嬉しい。けど、今の俺があるのはワンちゃんのおかげ。それはこの先もずっと変わらない」 「…よくわからない。だけど、憧れの人がいるのはいい事だと思う。はっきりした目標があって、自分もそうなりたいって頑張れるよね」  そう言って首を傾げると、 「吉野でも、尊敬する奴いるんだ」  加納君が俺の顔を覗き込み、瞳に好奇心の色を浮かべた。 「んー、改まって『尊敬』っていうより、強い相手にはみんな憧れる。監督や去年の主将、それに洸陽の藤木さんなんか、最高にかっこいい」 「ワンちゃんは?」 「北斗は野球だろ? 野球と剣道は比べられないよ」 「そんなもん? 一生懸命な姿勢って、共通するモノがあるじゃん。現に、ワンちゃんの憧れは吉野の剣道なんじゃないの?」 「まさか! ありえないよ」  思いっきり否定して、頭と手をブンブン振った。「北斗の憧れは、二つ上の春日さんって人。もう卒業したけど」 「ふーん、聞いたことないな」 「だと思うよ。去年は西城さっぱりだったし、北斗も、春日さんの人間性が好きなんだって言ってたくらいだから、プレーで目立つ人じゃなかったのかも」 「あー、そんなのも確かに有りだな。で、吉野は? 何で剣道? 野球はしないのか?」 「中学までは同級生と遊びでやってたけど、今は全然、全く。それに俺がやったらなんでかお笑いになるんだ」 「へぇ! それも才能の内かもよ。普通、野球で笑いは取れないじゃん」 「それって……褒めてる?」  わざと睨んで口を尖らせると、加納君が肩を竦めた。 「わり、話し易くてつい」  俺達の身長も体型も、そう変わらない。目線が同じだからか、すごく気が楽、というか俺も話し易いし、親近感も涌く。  違うのは俺の白すぎる肌と対照的な、小麦色の肌だけ。   しかもランニングシャツなのに、露出してる部分は北斗同様全部同じに焼けている。  二人の共通点が、俺には眩しすぎてちょっと悔しい。  そんな事を思い、密かにため息を吐いていると、 「けどさ、『県大会個人優勝』なんて肩書き聞いただけで、ものすごくイカつい奴を想像してたから、イメージと全然違ったんで正直驚いた」  新聞のモノクロ写真じゃはっきりわからなかった、と付け加えられたけど、俺の心境は複雑だ。 「そう? もしかして期待外れ、だったりした?」 「いーや。どっちかっつうとすっげ納得した」 「え?」 「ワンちゃんが会場に行きたがったわけ。ワンちゃんをあんなに必死にさせたのは、一体どんな男だろうって、義純と話してたんだ」  見ず知らずの二人の間で、自分の事が話題になってたなんて、思いもしなかった。  北斗の奴、どんな顔して彼らに声を掛けたんだ?   それともあいつの事だから、加納君を助ける為に必死だったとか。  だとしたら、やっぱり妬ける。 「――でも、それ一緒だから。俺も加納君にはぜひ会ってみたかった」  その思いを隠す為……ではないけれど、それとは別にもう一つの本心を告げて笑い掛けると、 「うわっ! 吉野、それマズイって」  らしくもなく加納君が動揺の色を濃くして叫んだ。 「え、何が?」 「んなマジな顔してそんな事言われたら、どう対応していいかわからなくなる」  僅かに染まった頬を両手の平で挟み、後ずさって行く。 「なんで? 正直な気持ちだよ。今日会えて、話ができて、本当に嬉しいんだ」  後退に合わせ後ろ向きに話す俺をまじまじと見た加納君が、ふっと息をついた。 「――参った。俺、来年もしかしたら吉野のインハイ予選、見に言ってるかもしんね」  どこからそういう結論に達したのかわからないけど、もしそれが実現したら、そう考えただけでドキドキしてきた。  俺が剣道しているところを、加納君にも見てもらえたら――― 「ほんとに? ちょこっとだけでも覗ける?」 「曜日によるけど、今年と同じなら可能性はあるかも」 「っし、頑張る!」  胸元で小さく拳を握り締めた俺を見て、加納君がプッと噴き出した。 「吉野は、本当に剣道一筋なんだ」  その時浮かんだ口元の笑みがすごく柔らかくて、マウンドの冷静で豪胆な彼とは別人で、それが加納君の素のような気がして、不思議な気分で見惚れていた。 「でもさ、ワンちゃんの応援はずっとするだろ?」 「もちろん。北斗のプレーは……言葉にできないくらい凄いから」 「だよな。俺が惹かれたのも…そこんとこかも」 「だから投げる球自体はどうでもいいって事?」 「そういうわけでもないんだけど」  やんわりと否定して、梛君と言い合いながら投げ続ける北斗をあごでしゃくった。 「ほら、球にバラつき、あんまないだろ?」 「あ、うん。それは俺も思った」  頷くと、自分の事のように嬉しそうな笑顔を見せた。 「誰でもさ、昔ピッチャーしてたからっていきなり投げれるわけない。しかも制服にただの運動靴なんて最悪じゃん。けどそんなのほとんど気にさせない」 「あっ、そっか。言われてみれば……」  思いがけず北斗の本気の投球を見れるのが嬉しくて、そんなの全然意識してなかった。  駿が河原で投げた時は一緒に審査されてる気分で、ハンデになる制服や足元が一番気になっていたのに。 「五年前と同じだ。あの安定感と抜群のコントロールがワンちゃんの最大の武器。けど、フィールダーとしてのワンちゃんの武器は……」  言いかけて間が空いた。  加納君へ目を遣り続きを促すと、 「言えない…ってか、教えない」  意味深に言葉を紡ぐ。 「え、加納君は知ってるの?」 「まあね。敵だから」 「………」  やたらと『敵』を強調している加納君は、自分自身にそれを言い聞かせているんだとやっと察した。  親しくなりすぎて馴れ合わないよう牽制してるんだ。大事な場面で自分の意思が揺らぐ事のないように。  こんなところにも加納君の野球に対する真剣さが伺える。  それは俺の剣道に対する意識と同じもので、そういう一面に気付く度、益々好感度が上がる。  そんな事を考えていると、謎かけの答えを探して考え込んだと思ったのか、 「ワンちゃんの怖いところを考えたら、すぐわかる」  とヒントらしきものをくれた。  けど、北斗の怖いところ……って、何?   北斗が怖いなんて、思った事あったか?  ――あ、ズボンのファスナー。……あれは怖かった。  でも…この場合、やっぱ意味が違うよな。  わかっていても一旦思い出したものは中々頭から消えてくれない。  さっきの加納君とは比べ物にならない程真っ赤に染まった頬を自覚して、頭を振り、強引に消し去ろうと努力していると、 「今度会うまでの宿題な」  当の加納君にあっさり片付けられてしまった。 「え、――『今度』って、またいつか会える?」 「さあ? けど一生会えないって事はないんじゃないの」 「…それもそうか」 「ならさ、今度こっち来たら直接二階に上がってこいよ。俺のダチはみんなそうする」 「え、でも…今日が初対面だし、俺なんて野球もやってないし」 「そんなのカンケーない。相手が西城以外なら、吉野は俺を応援してくれんだろ?」 「それはもちろん」 「したら、立派な友達じゃん」  親しみを込めた眼差しは口先だけじゃない、本気の気持ちだ。 「……ありがとう」  俺が疎外感を感じないように言ってくれてるのがわかる。  そのさりげない心遣いが、素直に嬉しかった。  だけど―――  公園に着いてから、三十分は経っただろうか。 「体力には自信がある」と公言していたのを証明するように、かなりの球数を投げても北斗の球威は衰えない。  それどころか球速も徐々に増してるように見えた。  何より、梛君の構えたミットに少しの狂いもなく収まっている。  ボールが逸れたのは投げ始めの数球だけだった。  投手としての感覚を取り戻したらしく、梛君の暴言にも辛口で答える余裕が出てきた。  言い合いはケンカ腰だけど、投球と口とは別物なのか、聞いていると漫才でもしてるみたいでなんだか微笑ましい。  マスクもプロテクターも着けていない梛君は、北斗の球を怖がるどころか完璧にリードしている。  罵詈雑言は本気モードでも、キャッチャーとして北斗の球を受ける役目を楽しんでいるのがバレバレだ。  それにしても、と思う。  加納君に指摘された通り、野球できる状態じゃない北斗の投球フォーム、仕草の一つ一つが、現役投手だと言っても違和感ないくらい様になってる。  梛君の返球を受け、ボールの縫い目を指に馴染ませているのか、グラブの中で握り直す姿はプロのピッチャーと何ら遜色ない。  駿の投球を見た時にはその球威に度肝を抜かれ、繰り出されるボールに意識が集中した。  けど、北斗は少し違う。  投げるボールに目を奪われる派手さはない代わり、こんなただのキャッチボールでも、どうしてかあいつの一挙手一投足に釘付けになる。  誰もがそうなりたいと願うフォームの美しさ。  卓越した運動神経と勘のよさ、積み重ねてきた経験、何より身体能力の高さがそれを可能にしている。  おそらく野球以外のスポーツを選んでいたとしても、そんなところは変わらない気がする。  それなのに…その自分の長所に、北斗は少しも気付いてない……んだろう。  梛君に言い返す言葉が、だんだん卑屈になってる。  山崎が残念がるのも無理ない。こんな姿がメディアに流れたら―――  そう考えて、ゾクッと背筋に悪寒が走った。  野手ならボールが飛ばないとほとんどの場合画面には映らない。  遠く、流れるように映されるか、それぞれのポジションについているのが一瞬出る程度だ。  けどピッチャーは違う。細かな表情まではっきり映し続ける。  画面越しに映るその姿を想像して、また振り払うように頭を強く振った。  山崎には申し訳ないけど、北斗がピッチャーを辞めてて本当によかった。  こんなオチがあったとは思いもせず、自分から見たがった事を今更ながら悔やんだ。  余計な事を知ってしまったのと、北斗に対する自分の狭量さに嫌気がさす。  そんな後悔に、胸の奥がズキズキと痛んだ。
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