Fly me to the moon.

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Fly me to the moon.

 シックな雰囲気の店内は、オレンジ色の間接照明に照らされている。カウンターに置かれたロックグラスの中で、溶けた氷がカランと音を立てた。琥珀色の液体がきらりと揺れる。店を訪れた客たちは、思い思いにグラスをかたむけながら、穏やかな喧騒と品のいいジャズに酔っている。  ここ、スペインはバルセロナの路地裏に佇む老舗のジャズバーには、今日も多くのマニアたちが集まっていた。  店のバックヤードに繋がるドアが開き、中から一人の女が出てくる。  少女と女性のちょうど間くらいの、歳若い女だった。アジア風のエキゾチックな美貌で、切れ長の一重瞼の上にゴールドのグリッターが光っている。華奢な身体から細い手足がすらりと伸び、長い黒髪の内側では脱色した金色と緑色がきらりと覗いた。  彼女は店の一角にあるちょっとした演奏スペースまで歩いていくと、中央に置かれた丸椅子に浅く腰かけた。慣れた様子で円形のエンドピンストッパーを用意し、その上に持っていた楽器のエンドピンを置いて固定する。彼女の胸の高さほどもある弦楽器、チェロである。彼女は自らの愛器に寄り添うように手を置き、右手の指のはらで優しく弦をはじいた。  いつの間にかBGMは消えていた。彼女はそのままいくつかの弦を確かめるようにはじく。弓は持っていない。ネックに頬を寄せて、調子を伺うように耳をすませる。  客の話し声は次第に小さくなり、視線はステージに集まる。ステージ上の女は楽器の音に満足したようで、ふっと顔を上げてスタンドマイクの角度を軽く調整した。  女がチェロを構える。店内に静寂が満ちる。一瞬の後、鈍く柔らかい弦の音から演奏が始まった。  Aマイナーから始まる刻むようなビートに乗せて、息を吸う。彼女の第一声は透き通るように美しく、きらめくように色っぽく、さらに言えば、流れ落ちるように艶やかに店内に響き渡った。誰もが知るジャズの名曲のチェロアレンジである。  彼女の甘くのびやかな声に、伴奏のチェロが低音で寄り添う。チェロの音域は楽器の中で最も人間の声に似ていると言われている。彼女の演奏は、まるで男女のシンガーによるデュエットのように聴こえた。  ねえ、私を月まで連れて行って。彼女の歌声は詩的に愛を告げる。伏し目がちに、ときおり愛器を見下ろしながら歌う彼女の姿は、暗めの間接照明に照らされてコケティッシュに浮かび上がった。  ワンコーラスを歌い終わると、チェロのアドリブパートが始まった。最初はメロディに沿って、次第に旋律は複雑に展開していく。踊るように音階を駆け上がり、軽やかなピチカートでステップを踏む。かと思えば、転がり落ちる。  女の身体は小さく揺れ、指先は弦の上を撫でるように滑った。弾かれた弦はその振動を楽器全体で響かせ、空気を震わせる。エンドピンをたどって伝わった振動はわら床を通して壁まで広がり、外にいる通行人の鼓膜でさえも震わせる。まるで、建物自体が鳴っているかのようだった。  チェロの音色とともに、彼女の感性が縦横無尽に駆け回る。彼女はメロディでバーの常連とグラスを合わせ、ふらっと立ち寄っただけの客を口説き、バーテンダーとタップダンスまで踊ってみせた。アジア人の小娘がと斜に構えて見ていたジャズマニアたちも、彼女の演奏に振り返らずにはいられなかった。  そして、自由で鮮やかなアドリブが終わり、主題が戻ってくる。彼女の高音はさらにのびやかに空気を震わせた。  低音を支えるチェロの音色と彼女の声が混ざりあい、響きあい、美しい波形を作る。ビブラートが綺麗に揃う。呼吸が揃う。彼女と彼女の持つ愛器は、今やひとつになっていた。  バーの中は、彼女の音楽に支配されていた。
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