Fly me to the moon.

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 演奏を終えて一旦バックヤードに引っ込んだ女は、チェロを背負って店内に戻った。バーの常連である壮年の男にMaravillosa!と手を差し出され、彼女は少し笑って握手をしてから拙いスペイン語で礼を言う。  彼女がバーカウンターにたどり着くまでに多くの人が声をかけ、中には音楽の専門的な話を訪ねる者もいた。しかし、少しでも難しい話をすると、彼女は困ったように眉を下げる。 「Perdón. No entiendo muy bien el español.」  すべての視線を振り切ってカウンターにたどり着いた女は、オーナーの隣に座ってバーテンダーに度数の弱いカクテルを頼んだ。オーナーがAmazingと静かに呟くと、彼女は出されたカクテルを一口飲んでニッと口角を上げる。  そのまま英語で暫く話をして席を立つ。彼女が髪をなびかせて出口に向かう途中で、僕はついに我慢できなくなって口を開いた。 「あ、あの!」  くるりと振り返った彼女は、きらびやかな瞼をぱちぱち瞬かせる。 「貴女にとって、チェロって、何ですか」  彼女は少し黙って、そして笑ってこう言った。 「私の、寂しがりの恋人ね」  彼女の笑顔はこの日一番の美しさで、口からこぼれた日本語は柔らかく耳に染み込んだ。
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