揺らぐ想い

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翌日の朝。 コーシは不快な気怠さで目が覚めた。 頭と体が妙に重く、呼吸をするのでさえ億劫だ。 「まずい…やられた…」 昨日通り抜けた湿地には独特の高熱ダニがいる。 その名の通り噛まれればダニの持つ菌にやられ高熱が出る。 若者なら大事には至らないが、それでも二日は苦しまねばならないのが特徴だ。 「コーシ、まだ寝てるの?」 寝室から出て来たセーラがそっと顔を覗かせた。 「いや…、今起きる…」 なんとか体を起こそうとするが、すぐにまたソファへと沈み込む。 セーラは異変に気づくとコーシのおでこに手を当てた。 「すごい熱…!!ま、待ってて…トレッカを呼んでくる!!」 慌てて飛び出そうとしたが、コーシはその手を掴むと引き戻した。 「いい…。原因は、分かってるから」 「でも…!!」 「これは…、寝てれば、二日程ですぐに引く。心配するな」 「ほ、本当…?」 「ああ…」 ぜいぜいと喘ぐ様子は苦し気で、力の抜けた手が床に滑り落ちる。 心配するなと言われてもセーラは気が気ではなかった。 「コーシ、ベッドまで頑張れる?あっちでちゃんと寝よう?」 「…あぁ」 手を貸そうとしたが、コーシは何とか自力で立つと壁を伝いふらふらと歩いた。 「掴まってもいいよ」 「いや…、いい。危ないから、離れてろ…」 万が一倒れでもしたら華奢なセーラを押しつぶしてしまうかもしれない。 意地だけでベッドに倒れ込んだが、そこまでが限界だ。 コーシは久々に出した高熱に全く身動きができなくなってしまった。 割れるような頭痛。 まとわりつく汗。 浅い呼吸と痛む喉。 眠りに落ちたくてもそれすら出来ない苦痛にひたすら絶えていると、ひんやりと冷たいタオルが首筋をたどった。 薄っすら目を開くと、流れる汗をセーラが拭っていた。 冷やされた所が少しずつ痛みを緩和していく。 「…気持ちいい」 うわ言のようにこぼすと、ずっと昔のことを思い出した。 あの時も確か高熱を出しこうやって苦しんでいた。 若草色の瞳で心配そうに見ていたのは、本気で好きだった陽だまりのような人。 献身的なセーラにその面影が重なった。 「サナ…」 ひと言だけ残すと、コーシは意識を完全に手放した。 苦しげな呼吸は寝息に代わり、部屋の中がシンと静まり返る。 セーラはタオルを握りしめたまま固まっていた。 今一瞬だけコーシが見せたのは、見た事のない優しい眼差しだった。 だがそれは自分に向けられたものではない。 「…そっ、かぁ」 何のことはない。 コーシには、あんな顔をさせるくらい好きな人がいたのだ。 セーラはタオルを握りしめるともう一度冷やすために部屋を出た。 蛇口を捻り、流れ落ちていく水をぼんやりと見下ろす。 「…馬鹿だなぁ、私」 コーシに好きな人がいる。 そんなこと考えたことすらなかった。 タオルを絞り直そうとしたが、その手にパタパタと温かな水滴が落ちた。 「あ…、あれ?」 次から次へと、勝手に瞳から悲しい色がこぼれ落ちてくる。 痛い。 痛い…。 胸が…痛い。 「どうして…、こんな…」 セーラはせっかく冷やしたタオルを握りしめ、膝を抱えてその場にしゃがみ込んだ。 コーシの熱は、夜になると少しだけ落ち着いた。 それでも何も食べたがらないので、蜂蜜を溶かしたレモン水を冷やして持って行った。 「うまい…」 「ほんと?よかった」 セーラはほっとすると甲斐甲斐しく世話をやいた。 コーシがぼんやりしているのをいいことに、汗をかいた肌を拭き服を着替えさせる。 掛け布団をかけ直し、あやすようにトントンと寝かしつけまで始めた。 「…なんだよ」 流石にコーシが眉を寄せると、ふふと笑いながら慈愛深く微笑んだ。 「お休み。ゆっくり眠ってね」 「…」 コーシは何か言おうとしたが、怠さに負けて目を閉じた。 眠りに落ちるまで小さな指が愛おしそうに髪を撫でていく。 その心地よさに、今度は穏やかな夢に落ちた。 すっかり母親モードに切り替えていたセーラは、その後もとことん甘やかしながら看病に専念した。 辛くなんてない。 これが自分の本来の役目。 愛しくて愛しくてたまらない想いを胸に、ただこうしてそばにいるだけだ。 それこそが押し付けなのだと、分かってはいるのだけれど…。 気を抜けばまた目頭が熱くなりそうで、考えることだけは意識的に放棄した。 丸一日経つと、コーシはやっと少しだけ体を起こせるようになった。 「あのやろう…」 恥もへったくれもなく散々好きにされた事にふてくされながら悪態をつく。 ベッドから起き上がってみたものの、立った途端くらりと目眩が起き壁に手をついた。 昨日よりマシだとはいえ熱はまだ高い。 「くそっ…。だりぃ」 壁に背を預けぐらぐら揺れる視界が戻るのを待っていると、水差しを手にしたセーラが部屋へ戻って来た。 「コーシ…」 水差しを棚に置きコーシに手を伸ばす。 「起き上がって…大丈夫?お水なら、持ってきて…」 話す様子が、なんだかおかしい。 セーラの目は虚で額には玉のような汗が浮かんでいた。 「セーラ…?」 「なん…なんでも、な…」 セーラは目の前で膝から崩れ落ちた。 「セーラ!!」 咄嗟に手を出そうとしたが、足に力が入らず片膝をつく。 床に伏せたセーラは真っ赤な顔で荒い呼吸を繰り返していた。 「バカお前…、うつってんじゃねーか!!」 コーシはしまったと思った。 高熱ダニの菌は人から人への感染力も強いのだ。 熱に浮かされていたとはいえ、そんな事にすら気が回らなかった自分に舌打ちをする。 気力を振り絞り、何とかセーラを抱え上げるとベッドまで運んだ。 「やばい…。無理…」 力尽きるとそのまま隣に倒れ込む。 セーラはこの後、ピークに向けてもっと苦しくなるはずだ。 「セー…ラ」 何とかしてやりたくても体が動かない。 せめて手を握ると、弱々しく握り返してきた。 「そう…だよな…。おまえは、俺と…同じ…」 傷ついたり、感染ったり、困ったり、泣いたり…。 繋いだ手だけは離さないように、コーシは指を絡めて目を閉じた。
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