透明な罠

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セーラの熱がちゃんと下がったのは、それから三日経ってからだった。 最初の日以来コーシが顔を出すことはなく、体の回復とは裏腹にセーラは塞ぎがちになった。 「また食べないのですか?せっかく熱が下がったのにこれじゃあ元気になれませんよ」 初めにセーラを診た医者はユスラと名乗り、コーシの代わりにずっとそばについていた。 食器を下げに来たハマクラも、少しも減っていない朝食に渋い顔をした。 「セーラさん、ちゃんと食べてくれないと私がお嬢様にしかられてしまいます」 「コーシは…?」 「コーシさんは朝からリコお嬢様と出掛けております。ですがそろそろ…あ、ほらあそこ。帰ってらっしゃったみたいですよ」 窓の外に、リコとコーシが連れ添って門をくぐるのが見える。 リコは遠目にもはしゃいでいて、コーシの腕に寄りかかっている。 ハマクラは嬉しそうに目を細めた。 「あのお二人、本当によくお似合いでしょう?お嬢様もずっと待ってらしたかいがありました」 「待ってた…?」 「実は、婚約の話が出たのはずっと前なのです。お嬢様は大乗り気でいらっしゃったのに、コーシさんは何故か一方的に断って逃げてしまいまして…」 大切なお嬢様が袖にされたのだ。 ハマクラは少し眉を寄せたが、咳払いをすると気を取り直した。 「ですが、事情があったとはいえこうしてコーシさんからまた歩み寄ってくれたのです。今度こそこのお話はまとまるでしょう」 セーラは呆然とリコとコーシを見下ろしながら、きゅっとカーテンを握った。 そんな様子に気づいたのはユスラだった。 「セーラ?」 呼びかけても反応はなく、ふらふらとベッドに戻りうつ伏せる。 その後はどれだけ声をかけても起き上がることはなかった。 階下では、帰ってきた二人の声が廊下にまで響いていた。 ハマクラは微笑ましい思いで二人を出迎えに行ったが、出くわしたのはいたく機嫌が悪いコーシだった。 「コーシ、そんなに怒らないでよ!仕方ないじゃないララージュさんは忙しい人なんですもの!」 「それでもお前ならつかまえられるっつったから行ったんだろうが!!」 「運が悪かったのよ。また行きましょ?」 リコはめげることなくにっこりと手を握った。 「でもいいじゃない?デートしてきたみたいで」 腕を振り切ったコーシはハマクラに気付くと、毎回繰り返す質問をした。 「セーラはどうなってる?まだ熱は引かねぇのかよ」 ハマクラは恭しく頭を下げるといつもと同じ答えを述べた。 「セーラさんはまだ熱が続いており、とても弱っております。セーラさんのご負担を減らすためにも、どうか今しばらくお待ちください」 「顔を見るだけだっつってんだろ!?それすら出来ないってどういうことだよ!?」 日は一刻一刻流れていく。 自分たちには時間がないのだ。 リコは宥めるように言った。 「そんなカリカリした人を病人の前に出せるわけないでしょ?さぁさぁ、早く着替えてお昼にしましょ」 「セーラに会ってからそっちへ行く」 「駄目よ。言っときますけど、セーラさんのお部屋には鍵をかけてますからね」 「何でだよ!?」 「勿論防犯のためだけど、そうでもしないとコーシだってズカズカと乗り込んじゃうでしょ?」 焦りは苛立ちに変わっていく。 それでもリコを無碍にできない理由がある。 コーシは怒鳴りつけたい衝動を辛うじて抑えこみ、睨むように二階を見上げていた。 夜になっても、セーラはうつぶせたまま全く動かなかった。 ぼんやりと開いたガラスの瞳は何も映していないが、その瞼の裏にはコーシとの日々が鮮やかに浮かんでいた。 初めて出会った汚れた海。 要らないと言われた日。 少しだけ近付いた距離。 風の気持ちいいバイク。 コーシの幼い思い出。 茜色の空が見える灯台。 起きたら見える長い腕。 温かな水滴とシトラスの香り…。 くるくる回っては、消えていく。 夢のように幸せだと、セーラは微笑んでいた。 自分は幸せだ。 幸せをもらいながら消えていく。 でもコーシは? 自分が消えれば、コーシはたった一人で残される。 それなら、ずっとコーシに寄り添う事ができる人がそばに居るのは、むしろいい事ではないのだろうか…。 深夜を回る頃、静まりかえっていた部屋にコツンと小さな音が響いた。 それは扉からではなく、窓から聞こえる僅かな音。 初めは意識に引っかかりもしなかったが、すぐにくぐもった声が聞こえた。 セーラはハッとすると体を起こし、カーテンと窓を開けた。 すると、すぐにひらりとコーシが部屋の中へ滑り込んだ。 「セーラ!」 「コー…シ?どうして…」 「そっちの屋根から伝ってきた」 コーシはセーラを抱きしめた。 「会いに来てやれなくて悪い。熱は?」 「だ…だいじょう、ぶ…」 本物だと分かると、セーラはしがみつきながら泣きじゃくった。 「うぅ…、コーシ、コーシ…」 セーラの背中を撫でると、コーシはベッドに腰掛け膝の上にセーラを乗せた。 「セーラ。言い訳がましいけど、聞いてほしい」 額と額をこつんと合わせ、声を抑えて話し出す。 「リコの父親には、以前サキぐるみで世話になったことがある。リコにはその時にえらく懐かれちまってな。あいつの父親とサキが勝手に縁談の話で盛り上がりやがったんだ」 「…」 「もちろんサキは酒の席の冗談のつもりだったんだろうけど、リコがすっかり本気にしてさ。俺はややこしくなる前に挨拶もろくにしないで先に中央区へ帰った。もう二年も前の話だ」 セーラがすり寄ると長い手が包み込む。 「今回は世話になる代わりに、俺は以前すっぽかした約束を飲んだ。でもリコの親父が帰ってきたらわけを話してここを出るつもりだ。 だからそれまでにセーラもちゃんと体を治して、一緒に出よう」 セーラは黙って頷くとコーシの背中に手を回した。 「コーシ…」 「ん…?」 「…ううん、なんでもない」 コーシは一人になるのに。 分かっているのに。 それでも、今だけでいい。 やっぱりこの腕が抱きしめるのは、自分だけでいて欲しい。 言葉に出来ない思いの代わりに涙がこぼれおちると、それを全て受け入れるかのように頬に温かな唇が触れた。
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