透明な罠

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二人が過ごしたのは、ただの恋人同士のような幸せな一週間。 たわいない会話で笑みをこぼし、絡めた指で心を繋ぎ、溶け合う体で体温を分ける。 それは過去も未来もない、今というだけの優しい時間だった。 そうして迎えた七日目の朝。 この日はいつもと違い七時になっても人工太陽は明るくならなかった。 代わりに天井からしとしとと落ちているのは透明な水。 この日は半年に一度、シェルター内に人工の雨が降る「清め日」だ。 文字通り空気中に留まる塵をこうして落とすのだ。 「今日は、外には出られないね」 窓の外を見つめながらセーラは残念そうに言った。 ただでさえなかなか起きないコーシは、まだ枕に(かじ)りついたままだ。 隣に戻ると肌けた背中に頭を寄せる。 「コーシ…」 「ん…」 「今日は一日、抱いていて…」 応えるように寝返りをうつと、セーラを胸に抱え込む。 「ここにいろ…」 パラパラと窓を打つ水音だけが部屋を満たす。 心地よい静けさの中で、セーラは囁くように言った。 「今日の夜…聞いて欲しい話があるの」 「うん…?」 コーシはうっすらと目を開いた。 「…なんだよ」 「今はまだいいよ」 温かい肌に擦り寄るとそのまま動かなくなる。 コーシはセーラを無意識に撫でながらまた目を閉じた。 人工雨は午後六時になるとぴたりと止められた。 この後数日は地面が泥濘(ぬかる)むので、自然と人通りが少なくなる。 街灯が光を落とし始めると、二人は手を繋ぎ外へ出た。 「何だかいつもと雰囲気が違うね」 「そうだな。足元気をつけろよ」 「うん」 適当に食べ物を買って部屋へ戻るつもりだったが、セーラが散歩をしたがったので出店へ入る。 簡単な食事を終わらせた後もわざと遠回りをして歩いた。 「足元、濡れちゃったね」 「…ああ」 「でも外に出て良かった。コーシと一緒に歩くの、大好き」 「…」 言葉とは裏腹に、歩けば歩くほど口数が減っていく。 もう少しで帰り着くという所で、沈黙したセーラの代わりにコーシが口を開いた。 「なぁ」 「うん?」 「話ってなんだよ」 セーラは目を見張った。 「ちゃんと、覚えててくれたんだ…」 「当たり前だろ」 時間は既に遅い。 周りに人は誰もおらず、遠くの店から声が漏れ聞こえてくるだけだ。 セーラは足を止め、コーシから一歩離れた。 しばらく何かに耐えるように俯いていたが、意を決し顔を上げると、いつもと変わらぬ微笑みを浮かべた。 「コーシ…。私、今とても幸せなの」 「…」 「コーシから沢山沢山愛情をもらって、胸の中が幸せでいっぱいなの」 コーシは黙ったままセーラを見下ろしている。 セーラは何とか想いを伝えようと震える心を絞った。 「あの地上の汚れた海で出会ったのは偶然じゃない。私はきっと、コーシに出会う為にあそこに行ったんだわ…」 「…」 「私の心の中にはずっとコーシがいる。だから、このまま離れたとしても最後まで私はコーシと一緒なの」 「…セーラ、もういい」 止めようとしても、セーラは続けた。 「私ね、今のうちにコーシを私からちゃんと解放したい。自分の意思で、そうしたいの。だから…」 コーシの手を取ると頬に当て目を閉じる。 「インプットを、解除して」 濡れたままの街灯から流れた雫が、足元の水溜りで音を立てる。 コーシは無表情のまま、静かな声で言った。 「…言いたい事はそれだけか?」 「…」 「この一週間、セーラは別れのつもりで過ごしたのか?」 セーラがはっきり頷くと、コーシの瞳に抑えていた怒りが混ざった。 「…ふざけんなよ。何でもう諦めるんだよ。俺は最後の一秒まで、諦める気は端からないんだぞ!!」 「コーシ…」 「俺が今更手放すような覚悟でお前といたと思うか!?それともお前にとって俺は、そんな簡単に諦められる程度なのかよ!!」 「簡単な…簡単なわけないよ!!…でも、でも嫌なの!!」 我慢していた涙がボロボロと勝手に溢れだす。 それでもセーラは初めてコーシに真っ向から反抗した。 「私…、私は、もういつ動けなくなるか分からない。この体がどうなるのかも分からない。そしてこんな私を残されるコーシがどうなるのかも…!!そんな…そんなの、嫌なの…」 「…」 「だから、お願い…」 涙を拭い、コーシの指先を自分の頭の後ろへと触れさせる。 「解除の仕方は、インプットの時と同じ。私が望んだ上でここにしばらく触れるだけなんだって」 「…」 「お願い…。私はコーシを、ずっと苦しめたりしたくない…」 コーシは手を振り払うと力任せにセーラを抱きしめた。 「…嫌だ」 「…」 「こんなの絶対に、嫌だからな」 そのままセーラを抱え上げると部屋まで連れて上がる。 ベッドにおろすと、コーシは勢いのままに口付けた。 これ以上話すことを封じるかのように、絡めた舌で声を奪う。 セーラは流れる涙もそのままに、いつものように深い情の中へと沈んだ。 夜も白み始める頃。 セーラはグラスコップを片手に立っていた。 反対の手に握るのは、赤い粉が入った小瓶。 「…」 水と赤い粉を口に含むと、そのまま眠るコーシに口付ける。 与えた水がコーシの喉を通ると、少し待ってから大きな手を握った。 それを自分の頭へと回し指を押し当てる。 目を閉じ、時が流れる音に耳を澄ませて手を離す。 最後にもう一度だけ愛おし気にキスをした。 「コーシ、大好きだよ」 小さな言葉が二人の間で溶ける。 「さようなら」 セーラは着替えを済ませると玄関を後にした。 外は街灯がまだぼんやり光っている。 商業区の入り口までふらふらと歩き、一週間前にも立ち寄った鉄骨置き場へと入る。 そこには明け方にも関わらず、約束をした人が待っていた。 「セーラ、ちゃんと戻ってこれたんだね」 セーラは何も答えずへたり込んだ。 「解除はしてもらえたのかい?」 黙って頷く。 「そう。あの粉を飲ませたんだね」 もう一度頷く。 「じゃあ彼は半日は絶対に起き上がる事は出来ないね。今のうちに完全に離れてしまおう」 優しく言うのは、ユスラだった。 ユスラは鞄を開くと注射器を取り出しセットしながら言った。 「これで良かったんだよ。君は人でいられるうちに彼と別れを告げ、完全にヒューマロイドと断ち切れた彼は全てを諦めざるを得ない。これで全てが元通りだ」 「…」 「あなたがフェザー家を逃げ出したいと言い出した時はどうしようか迷いましたが、全てに決着がついたのなら協力して良かったですよ」 セーラの腕を取るとそこに注射を打つ。 元々虚ろだった瞼は、あっという間に閉じた。 ユスラは鞄に器具を直すと、仄暗い笑みを浮かべた。 「行きましょう、セーラ。あの時君が逃げ出したせいで予定は大幅に変わったけど、お陰で手っ取り早くスラムを落とせそうだ」 眠るセーラを抱き上げたその顔に、悍ましいほど冷酷な瞳が光った。 「…お帰り、僕のヒューマロイド」
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