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幸せな少女
スラムの街は、日頃と変わらぬ時を流していた。
ララージュが手を尽くした甲斐もあり、今回の事は表面化する前にただの事故として徹底的に抑え込まれた。
だがその水面下では大量に死んだ者を埋め、怪我人を収容し、不信感を抱く人を宥める作業が密かに続いている。
裏で取り仕切っているのは勿論サキだ。
しばらくは後処理に奔走し、関わった者達は目まぐるしい毎日に忙殺されていた。
そんな外の騒々しさを眺めながら、コーシは隣で眠るセーラの頭を撫でた。
あの濃密な二人だけの一週間を過ごした部屋は、窓を閉めるとしんと静まり返った。
あれから四日。
セーラはまだ目覚めない。
コーシ自身もやっと体を楽に起こせるようになったのは今朝方だ。
部屋には朝だけ医者が入るが、それ以外はサキの配慮で誰も近付きはしなかった。
「セーラ…。もう昼だぜ?」
いつもならセーラがコーシを起こすのに、今は逆だ。
お湯で温めたタオルで汚れたままだった頬を拭ってやると、セーラの瞼が僅かに反応した。
「セーラ…?」
呼びかけると少女はガラスの瞳を開いた。
「コー…シ」
コーシに気付くと微笑みが浮かぶ。
それはとても人らしく温かな笑みだった。
コーシは締め付けられるような胸の内をぐっと堪え、小さな手を取り両手で握りしめた。
「ったく…、いつまで寝てんだよ」
「うん…。体が、起きられなくて…。でもコーシがずっとそばにいてくれたのは、分かってたんだよ」
「痛むところはないか?」
「うん」
起きたくて両手を伸ばすと、コーシはゆっくりと抱き起こした。
左肩を庇うコーシに、セーラは悲しい顔をした。
「コーシの方が痛かったね…」
「俺はスラム育ちだぜ?こんなのただのかすり傷だ」
セーラはそっと左肩に触れたが、薄汚れている自分の手に気付くとすぐに下げた。
コーシはその手ごと抱え込むと立ち上がった。
「起きれるなら俺が綺麗にしてやるよ」
「でも、コーシの怪我が…」
「平気だって」
時間をかけて全てを脱ぎ捨て、小さなシャワールームの扉を閉める。
注がれる水滴が体を温めると、セーラは猫のようにすり寄った。
「先に洗ってやるよ」
泡立つと途端に広がるシトラスの香り。
これが、最後かもしれない。
泡を洗い流すと、コーシは前と同じようにセーラを支え触れるだけのキスをした。
右腕はセーラの体を、左手は髪を絡めるように頭を支える。
セーラはハッとしてコーシを見上げた。
「コーシ、あのね。私…知らない間にインプットが解けてたの」
「え…?」
「ユス…あの人が言ってた。インプットの痣が消えてる。完全に消えるには一週間はかかるはずなのにって。…それでね、私もいつ解除されたか全然分からなかったんだけど、今分かったの」
頭に添えるコーシの手を取り、頬に当てる。
「私、ここで解除…ううん、解放されたんだわ」
コーシから離れると決めてここへ来た日。
あの時、この場所で、コーシは今と同じようにセーラを抱いていた。
その時にセーラは自由を得ていたのだ。
自分の胸に手を当てると、セーラは心の底から溢れる笑顔になった。
「私、インプットされたからコーシが好きなんじゃない。ちゃんと今でも、コーシが大好きだよ」
柔らかく降り注ぐシャワーが、二人を濡らし続ける。
その水滴はいくつも微笑みのそばを伝い、瞳から流れたものを薄めながら足元へと落ちていった。
翌日。
医者が部屋を訪れた時には二人の姿はどこにもなかった。
***
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